壺齋散人の 映画探検
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アンドレ・カイヤット「裁きは終りぬ」陪審員たちの法廷劇



アンドレ・カイヤットの1950年の映画「裁きは終りぬ(Justice est faite)」は、殺人事件を裁く陪審員たちの法廷劇。とはいっても、法廷の場面よりは、個々の陪審員たちの日常生活のほうに比重がかけられている。法廷の場面は肝心なところがうつされるだけで、映画のほとんどは、個々の陪審員たちの裁判中の出来事の描写に当てられているのである。たとえば、裁判で不在中に妻を使用人に寝取られた男とか、陪審員になったことをみせびらかせて、周囲の尊敬や恋人の親の好意を勝ち取ろうとするけちな男といった具合だ。そんなわけでこの映画は、なにがテーマなのかはっきりしないところがある。ひとつはっきりしていることは、陪審員が人を裁くことに疑問を呈しているということだ。自分の生き方さえ満足にコントロールできない人間が、どうして他人を裁くことができようかというのである。

殺人事件とは、いわゆる安楽死のことである。日本でもいまだに安楽死は違法だが、1950年ごろのフランスでも違法であり、世間の風当たりも強かった。カトリックという国柄が、余計に安楽死に対して不寛容な風潮を助長していたという面があるらしい。この映画の中でも、安楽死を頭から犯罪視するのは、カトリック信仰の強い人たちである。一方、被告の事情に同情するのは、比較的リベラルな考えをもっている人なのであろう。いずれにしても、強固な信念に基づいて判断しているわけではなく、宗教的な意識とか個人的な好悪感に基づいて判断しているにすぎない、というふうに伝わってくるように作られている。

この映画を見ると、フランスの刑事裁判制度が要領よくわかる。無作為に選ばれた20人の中から、さらにくじ引きで7人を選んで団を構成する。それに補欠が二人加わる。陪審員たちは裁判に先立って被告を紹介される。その後、裁判長の主催する会議に参加しながら、それぞれの判断を提示する。会議は裁判長が主催する。その上で、多数決によって有罪か無罪かを決定する。他日見たロシアの映画「12人の怒れる男」では、陪審員の数は12人で、裁判長とは独立して会議を催し、会議の決定は全員一致を原則としていた。同じく陪審員制度をとっていても、国によって運営の仕方が違うわけだ。

結局被告は有罪になるが、情状を酌量されて、比較的軽い罰ですむ。懲役5年である。殺人事件としては、異例なほどの短期刑だということである。




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