壺齋散人の 映画探検 |
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ミケランジェロ・アントニオーニは、ネオ・レアリズモ以降のイタリア映画を代表する監督だった。出世作となった「さすらい」は、ネオ・レアリズモ風の作品だが、「情事」をはじめとする「愛の不毛三部作」はまったく新しい傾向の映画であり、フェリーニとともに、不条理映画のシンボル的な存在に祭り上げられたものである。特に「愛の不毛三部作」は、ドラマ性を無視した構成ぶりが「反ドラマ」と評され、映画の新しい波を感じさせた。 |
「さすらい」は妻に棄てられた男が、娘をつれてさすらい歩くさまを描いており、最後には妻へのあてつけに飛び降り自殺する様子を映し出していた。これは、自殺を別とすれば、アントニオーニ自身の体験に基づいた話だそうだ。アントニオーニも妻に捨てられ、ほうぼうさすらい歩いた経験があるというのである。 「情事」は、ミケランジェロ・アントニオーニの名を世界中にしらしめた映画だった。この映画によって、アントニオーニは一躍「不条理」映画の寵児となった。その後、「夜」、「太陽がいっぱい」と同じような傾向の映画をつくり、あわせて「愛の不毛三部作」と呼ばれた。この三部作には、モニカ・ヴィッティが出てくる。「夜」ではジャンヌ・モローが主演を務めているが、モニカ・ヴィッティも大事な役どころを努めている。モニカ・ヴィッティは実に独特の風貌と雰囲気をもっているので、不条理な役柄は身にあっているのである。 モニカ・ヴィッティの醸し出す不条理さは、「愛の不毛三部作」に続く「愛の砂漠」において一層進化し、テーマ自体も「愛の不毛」を超えて、「愛の不在」というべきものになる。この映画でのモニカ・ヴィッティの演技には、鬼気迫るものがある。 「欲望」もまた、人間の不条理をテーマにしたものだが、「愛の不毛三部作」や「愛の砂漠」より不条理の度合いが一段と深まっている。「愛の不毛」や「愛の不在」の場合は、不条理の原因は愛することの不可能ということに根ざしており、したがって一応理由らしきものを指摘できるのだが、「欲望」にはそのような理由はない。ただただ人間の限りなき欲望が、人間の行いをグロテスクで不条理なものにするということを、控えめに語っているのである。 「砂丘」にいたっては、人間の行為は不条理であることを超えて、無意味なものとなっている。生きること自体が無駄だという過激な思想が伝わってくるのである。 「ある女の存在証明」は、存在感の薄い女たちを描いたものだが、なぜ存在感が薄いかといえば、生きること自体に意味がないからだという開き直りのようなものが伝わってくる。一応愛は描かれるが、その愛は、男女のすれ違いとして描かれるのである。 こんな具合に、ミケランジェロ・アントニオーニは、ほとんどすべての作品を通じて、従来の映画についての人々の観念をまったくつくがえすようなものだった。映画史上実にユニークな存在といってよい。ここではそんなミケランジェロ・アントニオーニ代表的な作品を取り上げ、鑑賞の上適宜解説・批評を加えたい。 ミケランジェロ・アントニオーニ「さすらい」:女に捨てられた男の悲哀 ミケランジェロ・アントニオーニ「情事」:ミステリー仕立ての男女関係 ミケランジェロ・アントニオーニ「夜」:夫婦の倦怠 ミケランジェロ・アントニオーニ「太陽はひとりぼっち」:アラン・ドロンの魅力 ミケランジェロ・アントニオーニ「赤い砂漠」 愛の不在 ミケランジェロ・アントニオーニ「欲望」:馬鹿馬鹿しいかぎりの世界 ミケランジェロ・アントニオーニ「砂丘」:砂漠のセックス ミケランジェロ・アントニオーニ「ある女の存在証明」:愛のすれ違い |
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