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石井裕也「生きちゃった」:生き方の下手な人間



石井裕也は、生き方の下手な人間を描くことにこだわりを持っているようで、2020年の作品「生きちゃった」もそうした生き方の下手な人間をテーマにしたものだ。この映画に出てくる人間は、だいたいが生きるのが下手な人たちである。仲野太賀演じる主人公がそうだし、かれを裏切る妻(大島優子)もそうだし、主人公の両親や兄、主人公の幼馴染の男など、みな不器用で、生き方が下手である。いまの日本社会で、生き方の下手な人間は、要領の悪いものとして扱われ、徹底的に抑圧されるようなシステムになっている。そのシステムは、格差問題とも絡むので、生き方の下手な人間は、とことん割の合わない目に合う。だからといって、それに反発する気力もない。だが、こんな人間がいるおかげで、日本社会はなんとか成り立っている、と感じさせる面もある。それほど今の日本社会は壊れてしまっている、というのが石井裕也からのメッセージのようにも受け取れる。

主人公は、妻と娘と一緒に暮らしている。かれには幼馴染の友達がいて、一緒に何か起業するのを夢にしている。だが、元来不器用なたちなので、起業できるような見込みはないと感じさせる。妻もやはり幼馴染で、夫の友人とも知り合いだ。夫は、図書館のようなところで仕事をし、親子三人なんとかつつましく暮らしている。そんな日常に異変が起きる。体の具合が悪くなって早退して帰宅したところ、妻が見知らぬ男とセックスしている場面を目撃してしまうのだ。妻には悪びれる様子はなく、自分に有利な条件での離婚を望む。その望みを夫は尊重する。妻にもそれなりの言い分があると思うからだ。

男は、住んでいる家を妻に明け渡し、友人のところに転がりこむ。そのうえ、多額の生活費を負担することを承知する。ふつうなら、不倫をした妻のほうの責任のほうが大きいわけだが、この男は、まるで自分に責任があるかのように、妻の言い分を丸呑みしてしまうのだ。それは、かれがうまく生きることが苦手だからだと伝わってくるのである。

もっとも、妻のほうも、不倫のあげく相手と一緒に暮らすようになったものの、その相手の男を夫の兄に殺され、また、男が残した借金を背負わされ、ひどい境遇に陥る。そのあげくに、デリヘル稼業の最中に、変態の客に殺されるのである。妻がそんな境遇に陥ったのは、元から言えば彼女のしたことに原因があるので、今はやりの言葉で言えば、自己責任の範疇である。

主人公の男のお人よしぶりというか、生き方の下手なところは、妻の葬儀に出かけて、妻の母親から追い返されたうえに、愛する娘と会えなくなるというような事態を招く。かれは、だれが見ても大して悪いことはしていないのに、割の合わない目に合うばかりなのだ。

なお、タイトルの「生きちゃった」とは、下手ながらも生きることは生きたという意味か。




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