壺齋散人の 映画探検
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座頭市:北野武



北野武の「座頭市」は、勝新太郎の座頭市シリーズを意識したものだが、座頭市というキャラクターを借用しているだけで、子母澤寛の原作とは全く関係がない、北野のオリジナル作品だ。その座頭市という名前にしてからが、映画では表面に出ておらず、まわりの者は単に按摩さんと呼んでいる。これを座頭市と呼んでいる唯一の人間は、敵役のやくざで、いわば腹いせの悪態として言っているだけで、座頭市がこの按摩の表向きの名前とは思われない。

勝新太郎の座頭市もかなり暴力的だったが、この映画の中の座頭市はそれに輪をかけて暴力的だ。彼がぶったぎった悪党の数は数十人に上る。いくら相手が悪党でも、まるでマグロを解体するかのように、人間の肉を切り裂くイメージは、決して教育的とは言えない。北野武の映画は、暴力に特徴があるが、この映画は究極の暴力映画と言ってもよい。同じ暴力でも、これは剣で人を切り裂くのであるから、その迫力は並大抵ではない。

原作では、流れ者の座頭が行く先々の宿場町で悪党たちと戦うというものだったが、この映画も一応そのスタイルを踏襲している。この映画の中の按摩は、宿場町らしいところを通りがかった際に、その街の悪党たちと妙な因縁から対立することになり、その悪党どもを一網打尽にして切り殺すのだ。その迫力たるや、悪党の憎らしさに比例するように、痛快な感情を呼び起こす。

筋額は結構複雑だ。人間関係が幾重にも折り重なっていて、どれが話の本筋かわからないところもある。こういう筋書きの複雑さは原作の座頭市にはなかったもので、これは北野武の趣味を反映しているのであろう。

主な筋は、姉妹の仇討ちだ。もっともその姉妹が自分たちで直接仇を討つわけではなく、座頭市がかわりに討つのであるが。討たれる仇は、十年前に姉妹の親兄弟を殺して、いまは宿場町を牛耳っている。こいつらの欲は果てしがなく、ライバルたちを次々と叩き潰しては、利益の独占をめざしている。そんな悪党と、座頭市は座頭市なりに因縁を持つようになる。

それに放浪の浪人夫婦がからむ。浪人が出て来る所は、新太郎版座頭市の第一作に似ているが、第一作の平手造酒が自分自身肺病病みで、かつ座頭市と不思議な友情で結ばれたに対して、こちらの浪人は妻のほうが肺病病みで、夫は座頭市と友情を結ぶことはない。しかも映画の前半では、情けない侍として描かれている。その侍がどういうわけか奮闘発起して剣の達人となり、やくざ者の用心棒となる。そこで座頭市と対決する羽目になるのだが、座頭市にも一棹お見舞いするというわけなのだ。

そのほか、わけのわからぬ五人組とか、宿場で酒屋を営む親爺とかが出てきて、やたらと筋を混乱させる。その辺は北野武の趣味を反映しているのだと思うが、やややりすぎの感がないでもない。

前作と大きく違うのは、時代劇でありながら、現代的な感覚を取り入れているところだ。百姓たちが田植えをするに際してステップダンスで音頭をとったり、町人どもにタップダンスを躍らせたり、また最後の祭のシーンでは、着物姿の男女に今風の派手なダンスを踊らせている。こういう工夫があるおかげで、映画に艶のようなものが生まれて、見ていて楽しくなる。よくできた演出だと思う。




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