壺齋散人の 映画探検
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失楽園:森田芳光




渡辺淳一の小説「失楽園」が単行本になったのは1997年のことだが、発売されるやいきなり大ヒットした。読者の大部分は所謂団塊の世代の男たちだった。彼らはこの小説の中で描かれた初老の男を自分自身に重ね合わせ、その男の生き方に、よくも悪くも激しく反応したのだと思う。そして、この男と同様不倫に耽っていた連中は、そこに自分自身の分身を見出してニンマリとしただろうし、不倫と縁のなかった連中は、俺もやってみたいと思ったに違いない。

筆者自身も、団塊の世代の一員として、当然この小説を読んだ。えらく感心したことを覚えているが、内容は殆ど忘れてしまった。すぐれた小説を読むと、だいたいいつまでも覚えているものだが、この小説をあまり覚えていないというのは、小説自体にたいした中身がなかったのか、自分の読み方が中途半端だったのか、いまとなってはよくわからない。その時に感じた印象は、高級ポルノといったものだった。この当時は渡辺に限らず、多くの作家がポルノの腕を競っていたものだ。作家とは男を立たせるのが甲斐性だとばかり、森瑤子とか髙樹某女とか、女性のポルノ名人も現われたほどだ。

森田芳光が渡辺の原作を映画化したのは、出版されたその年のことだ。映画もまた大ヒットした。こちらのほうを筆者は見なかったのだが、したがって原作と映画とを同時間的に鑑賞することはなかったのだが、今の時点でこの映画を見ると、かなりしらけた感じにさせられる。やはりその後の時の流れが、不倫についての見方を、一層変化させたのだろう。

いまでは、熟年男女の不倫はそんなに珍しいものではないし、不倫をしたからといって、深刻な逆境に陥るということもない。男については、そのために会社を首になるということもなくなったし、女のほうも姦通呼ばわりされるとこもなくなった。精々芸人たちの不倫がゴシップ週刊誌をにぎわす程度のことだ。

ところがこの作品の中の男女は、命がけで不倫をし、挙句の果ては社会から厳しく制裁されることになっている。男は家庭も仕事も失い、女のほうも肉親から絶交されるのだ。不可解なのは、こうした社会的な制裁に直面した男女が、心中するということだ。なぜ彼らが心中しなければならなかったのか、それがどうもよくわからない。今頃は、不倫の責任をとって心中する男女など笑い話にもならないし、それは二十世紀末のあの当時の日本でだって、そんなに大きくは変わらなかったのではないか。筆者の周辺にも不倫をしていたものはあったが、そういう連中が厳しい社会的な制裁を受けたという話は聞いたことがなかったし、無論責任を感じて自殺したり、心中をはかったりという話も聞いたことが無かった。

不倫をした男女が、自らの罪の責任をとって心中するというのは、近松門左衛門の時代にはありえたかもしれないが、二十世紀後半の日本ではありえなかったといってよい。そのありえない話を渡辺が小説のテーマに選んだのは、渡辺流のテクニックなのだろう。ポルノも芸術の端くれを目指すなら、多少は人の意表をつくアイデアを提供しなければ格好がつかない。不倫の結末としての心中は、あるいは日本人の願望をもっとも純粋に現わしているのかも知れない。責任の重圧があればこそ、男女の不倫も精彩を放つ。責任をともなわない不倫など、犬の交尾とかわらぬではないか、というわけだろう。

役所広司は、濡れ場に恵まれた俳優だと思うが、この映画の中でも、黒木瞳を相手に存分にセックスを楽しんでいるように見える。初老の男が性の快楽におののく姿がひしひしと伝わってくる。たしかにこんな女が相手なら、なにを犠牲にしてもいいと思うようになるのかもしれない。少なくとも役所の顔には、あらゆるものを犠牲にしてもこの女を抱く喜びは手放せないという決意が伝わってくる。セックスするのに決意がいるというのは、多少大げさに聞こえるのだが。

黒木のほうも、男を真正面から受け止めて、男を快楽に狂わせるだけでなく、自分自身も快楽にのたうちまわっている。そういうシーンを見ると、この映画が実に上質なポルノ映画だということをあらためて感じさせられる。ポルノ映画もある種の芸術作品になれるのだ。

黒木は、新しい男を知ってしまった後では、他の男に抱かれることはできない、と言うのだが、それが自分の命取りになる。セックスを拒まれた夫が、それによって妻の不倫を察知するからだ。不倫というものは、夫とのセックスを続ける一方で、他の男とのセックスも楽しむというのが原義だろうから、夫を拒絶して他の男と寝たがるのは、もはや不倫とは言えないのである。

これは医者としての渡辺の遊びかもしれぬが、男女が結合したままで死に、死後硬直のためにその結合を説くのが難しかった、というようなメッセージを発している。精神的に結ばれただけでなく、肉体的にも結ばれて、つまり抱合の状態で絶えるというのは、ある意味人間の究極的な幸せなのであろう。




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