壺齋散人の 映画探検 |
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ジョン・フォード( John Ford )の映画「わが谷は緑なりき( How green was my valley )」は、家族の情愛と人間同士のつながりの大切さを描いた実に感動的なヒューマン・ドラマである。恐らく世界の映画史上最も良質のヒューマン・ドラマとして人類史に残るのではないか。その感動的なことは、筆者のように単純にできた人間には、見るたびに泣かされてしまうほどだ。筆者ならずとも、この映画を見て涙を流さぬものは、人間だとは言われぬだろう。 画家の安野光雅に「我が谷は緑なりき」と題したエッセー集がある。画家の少年時代を回想した文章を収めたものだが、その筆致は自分の育った町(津和野)への限りない郷愁に満ちている。安野はその郷愁と同じものをこの映画に感じ取って、その題名を自分のエッセー集に用いたのではないか。この映画には、人々をそれぞれの郷愁にいざなうセンチメンタルなところもある。そこに筆者などは、強い情動を感じてしまうのである。 映画の舞台となった「緑なすわが谷」は、ロンダの谷と呼ばれるウェールズの炭鉱地帯である。そこに夫婦と七人の子どもたちからなる大家族が暮らしていた。その家族の末っ子であるヒュー(ロディ・マクダウォール Roddy McDowall )の視点を通じて、映画は展開していく。今や初老の域に達したヒューが、この谷を去るにあたって思い出に満ちた過去を回想する、という形で映画は展開していくのである。 父親(ドナルド・クリスプ Donald Crisp )と母親(サラ・オールグッド Sara Allgood )はこの炭鉱町で七人の子どもを生み育ててきた。六人いる男の子のうち幼いヒューを除く五人は父親と同じく鉱夫の仕事をしている。母親と娘のアンハード(モーリン・オハラ Maureen O'Hara )は、男たちの面倒を見るのが日課である。毎日の生活は順調で、家族の誰もが自分たちの境遇に満足している。 長兄のイーヴォル(パトリック・ノウルズ Patric Knowles )のところへ花嫁がやってきて、一家は二つの家族に分かれる。分かれると言うより、拡大していくのだ。ヒューはこの兄嫁のブロン(アンナ・リーAnna Lee )にあこがれを抱く。まだ幼いヒューにとって、それはなんとも不思議な感情だったが、やがてその感情が、一人の女性に対する愛に発展していくだろう。 一方、イーヴォルたちの結婚を仲立ちした説教師のグリュフィード(ウォルター・ピジョン Walter Pidgeon )に、姉のアンハードが恋心を抱く。グリュフィードのほうもアンハードに親密な気持ちを抱くが、説教師としての使命感に殉じるあまり、アンハードへの愛を素直に打ち明けることができない。 そのうち、谷間には不穏な空気が漂い始める。まず、賃金引下げの通告が会社側から出される。引き下げの理由は明らかにはされないが、不況で炭鉱の仕事が減り、人手が余ってきたことが原因らしい。それに石炭価格の下落が重なって、鉱夫の賃金が引き下げられたようなのだ。これに危機感を抱いた鉱夫たちは、組合を作って対抗する。それに対して父親のギルムは控えるように説得するが、息子たちを含めた鉱夫たちは、無期限のストライキに突入する。彼らは、ギルムを裏切り者と言って非難するのだ。 資本による労働の搾取とそれに対抗するストライキといった、社会状況とそれを背景にした人々の行動の描き方は、「怒りの葡萄」で見せたフォードの社会派としての面目が反映されているが、あまりくどくはなっていない。それだけ、映画としての説得力が高いといえる。 ギルムが目の敵にされているのに危機感を覚えた母親は、鉱夫たちの集会に乗り込んで、夫を擁護する演説をぶつ。しかしその帰り道に橋から川に転落して大怪我をする。その際にヒューも川の冷水につかって凍傷にかかる。 牧師と父親の努力があって、ストライキは解決する。しかし、職にあぶれるものがあとを絶たない。兄たちのうちの二人が、会社から解雇され、新天地を求めてアメリカに旅立っていく。その傍ら、姉のアンハードは会社の社長の息子に見初められて求婚される。姉はグリュフィードを愛しているのだが、グリュフィードから拒絶の言葉を聞かされて、不本意のまま社長の息子と結婚してしまうのだ。 グリュフィードに励まされながら完全に回復したヒューは、隣町にある中学校に通うこととなる。この中学校でヒューは、いじめを体験しながら一人前の男へと人間的に成長していく。この成長の場面が、この映画の大きな見所にもなっている。 炭鉱内で事故が起きて長兄のイーヴォルが死ぬ。彼の死と入れ替わるように、ブロンがイーヴォルの子を産む。そんなブロン母子に、男となりつつあるヒューは、深い同情を寄せるのである。 主席で中学校を卒業したヒューに、父親は大学に行かせてやると言い出す。しかしヒューは、この谷にとどまって父親と同じように炭鉱で働くと言う。そのかわりに、ブロンと一緒に住んで、彼女とその子どもの面倒を見たいと言うのだ。息子の決意に接した父親は、その希望を容れることにしてやる。こうしてヒューは、幼い頃からあこがれていた兄嫁と、新しい生活を始めるのである。 だがヒューにとって、谷間の雰囲気は次第に暗いものになっていった。残っていた二人の兄が解雇され、新天地を求めてニュージーランドへ去っていく。南アフリカに夫とともに住んでいた姉のアンハードが、失意のまま単身帰国する。そんな彼女をめぐって、いやらしい噂話が谷を駆け巡る。アンハードと牧師のグリュフィードが不倫をしているという噂だ。その噂に傷ついたグリュフィードは、谷を去る決意をする。 そこへ再び炭鉱内の事故が起きる。今度は父親が犠牲になった。ヒューはグリュフィードとともに坑内に下りていき、岩の下敷きになっていた父親を助け出そうとするが、父親はそのまま死んでしまう。お前は立派な男だ、という言葉を残しながら。 この場面で映画はクライマックスを迎える。父親は死んだが、自分と父親との間には死と言う言葉はない、突然回想モードに切り替わった画面からはそんなメッセージが流れてくる。父親は自分の思い出の中で生きている、その思い出の中で、わが谷は緑だった、と言うメッセージが続く。そのメッセージからは、家族の情愛と人間として生きていくことの尊厳のようなものが伝わってきて、人をして思わず涙せしめるのだ。 こんなわけでジョン・フォードのこの映画は、筆者にとっては、ウィリアム・ワイラーの「黒蘭の女」と並んで、もっとも感動的で忘れえぬアメリカ映画となった。 |
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