壺齋散人の 映画探検
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モロッコ:スタンバーグとディートリッヒ



スタンバーグとディートリッヒはドイツで「嘆きの天使」を作った後、一緒にハリウッドにわたって映画史に残る名作を作った。「モロッコ」である。この映画では、マレーネ・ディートリッヒの妖艶な美しさが引き続き披露されたほか、アメリカ映画永遠の二枚目と言われるゲーリー・クーパーが、ディートリッヒの相方として存在感を示した。

この映画は、モロッコの外人部隊をテーマにしている。モロッコはフランスの植民地だったが、そこをフランスはフランス人の正規兵ではなく、世界中から食いつぶれて来た外人部隊を使って統治していた。金で雇われた外人部隊であるから、無論忠誠心などはない。それぞれ自分の祖国にいられなくなった男たちが、最期に残された居場所を求めて集まってくる。だから彼らの命はごみ屑のように扱われる。もともと未来など持たない男たちだから、そう扱われても大して異議があるわけではない。毎日を何とか生きていければ満足なのだ。

そんな外人部隊のある場所に、ヨーロッパから一人の女が流れてくる。マレーネ・ディートリッヒ演じるダンサー兼シンガーだ。彼女も自分の未来に希望がないことでは、外人部隊の男たちと大した違いはない。それでも自分に惚れてくれる男が現れる。モロッコで金儲けの事業をしていることになっているセジェールという男だ。その男のプロポーズにマレーネは何らの反応をも示さない。

そのマレーネが、出演していたキャバレーで、一人の外人部隊戦士の姿を見かけて、一目惚れする。ゲーリー・クーパー演じるニヒルな男だ。以後この映画は、マレーネのクーパーに対する強烈な愛を中心に展開してゆく。

マレーネは逢ったその日のうちにクーパーに自分の部屋の鍵をわたす。しかし彼らは簡単には肉の交わりには進まない。それぞれ複雑な過去を持った二人は、一瞬の愛に身をささげつくすというにはあまりにも慎重なのだ。だが、クーパーが上司の憎しみをかって投獄されそうになると、マレーネはセジェールに頼んでクーパーを解放してもらう。セジェールの愛を受け入れる条件で。

解放されたクーパーの部隊は、モロッコの奥地へと派遣されることとなる。厳しい戦闘が予想される場所だ。ややして部隊の本体は戻ってくるが、そこにはクーパーの姿がない。不安になったマレーネは、今や婚約者であるセジェールと共に、クーパーの安否を尋ねる旅に出る。マレーネを深く愛するセジェールは、彼女の希望をすべてかなえてやりたいと思うのだ。こういうキャラクターは、ハリウッド映画としては非常に珍しいといえよう。

マレーネとクーパーは再会できたが、クーパーはモロッコのさらに奥地へと向かって進むこととなる。今度こそは命の危険が高いところだ。その部隊には、兵士たちの情婦らがそれぞれ生活道具を抱えて付き従う。日常生活を慰めるとともに、兵士が傷ついた時には俄か看護婦を務めるためだ。その女たちに交じって、マレーネも部隊に付き添うことを決断する。こうして一緒にいられれば、どんな困難もつらくはないと思うのだ。

こういう愛におぼれた女と言うのは、欧米では非常に珍しいといえよう。男の運命に自分の運命を重ね合わせるという決断は、日本の女にとっては珍しくはない。たとえば近松の浄瑠璃に出てくる女たちは、男と一緒に死ぬことで、男の運命に自分の運命を一体化させる喜びにおののく。しかし欧米にはそういう女はほとんど存在しないと言ってよい。欧米には心中の習慣などはないし、死んではもともこもないというドライな考え方が強い。それがこの映画の中のマレーネは、クーパー演じる外人部隊の兵士の運命に自分の運命を結合させようと決意している。その潔さのようなものが、当時の欧米社会でこの映画を特別のものにしたようで、かなりな反響を呼び起こした。

この映画の三年後に、フランスのジャック・フェデーが、やはりモロッコの外人部隊をテーマにした映画を作った。筋書きは似たようなものだが、男女の愛よりも人間の持つ運命のようなものに焦点をあてている。それはそれでなかなかよくできた映画である。




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