壺齋散人の 映画探検
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サム・ペキンパー「戦争のはらわた」:ドイツ軍の退却戦



サム・ペキンパーの1977年の映画「戦争のはらわた(Cross of Iron)」は、第二次大戦末期のドイツ軍の退却戦を、ドイツ側の視点から描いたものである。それまで第二次世界大戦を描いた映画といえば、ドイツ軍は加害者として描かれるのが普通で、ドイツ軍の視点に立ったものはないに等しいとされていたという(当のドイツ国内でもそうだったのかどうか、事情に疎い筆者にはよくわからないが、どうもドイツにおいてもドイツ軍を英雄視する映画ははばかられていたらしい)。そんなところに、ドイツ軍寄りの視点で戦争映画が作られたというので、この映画は結構話題になったようだ。

この映画は、独ソ戦末期におけるドイツ軍の退却戦を描いている。クリミア半島近くのタマニに進攻していたドイツ軍が、ソ連軍の猛烈な反撃を受ける中で全面退却を強いられる。映画に出てくるドイツ軍部隊は一個連隊ということになっており、その連隊はスターリングラードの攻防戦にも参加したというようなメッセージが流れる。この連隊は、その後更にロシアの奥深く南下して、クリミア半島の対岸にあるタマニ半島にまで進攻し、そこでソ連軍の優勢に直面して退却を強いられるようになったという設定だ。

この連隊に属する中隊とそのまた下の小隊の戦いぶりがこの映画の主なテーマだ。小隊長はジェームズ・コバーンが演じており、これが圧倒的に優勢なソ連軍と戦う一方、身内というべき中隊の将校とも確執する。結局コバーン演じるドイツ軍の英雄的な兵士が戦っているのは、ソ連軍と言うよりは、むしろナチス党員の将校であった、というのがこの映画のミソである。ドイツ軍の戦いをドイツ側の視点から描くといっても、そのドイツ軍自体が腐敗していたというメッセージが盛られているわけで、これは形を変えたドイツ批判の映画ともいえる。

ドイツ軍の兵士には間の抜けたものも登場する。ソ連軍の拠点を襲った際に、そこにいた女兵士を捕虜にした挙句、レープする兵士も出てくるが、その兵士は手篭めにしようとした女にペニスを切り取られてしまうのだ。これではあまりに堕落した話で、洒落にもならない。

こんなわけでこの映画は、ドイツ軍兵士の英雄的な戦いばかりを描いているわけではない。さすがに、ドイツ軍の敵であるソ連兵にはほとんどいいところがないが、ドイツ軍にも、コバーン演じる小隊長を別にすれば、あまりいいところがないのである。

戦後の日本では数多くの戦争映画が作られたが、個々の日本兵をカリカチュアライズするようなものは殆どなかったはずだ。日本軍が全体として批判的に描かれることはあっても、個々の兵士が否定的に描かれることはなかった。ところがこの映画は、個々のドイツ軍兵士まで否定的に描いている。そこがこの映画の変わったところだ。

この映画はアメリカ人のサム・ペキンパーが作ったものだし、イギリスとドイツの合作ということなので、その分ドイツ側の視点が相対化されているのかもしれない。だがこの映画の本当の狙いは、ドイツ軍の歴史的な評価などではなく、戦闘行為を生き生きと描くことにあるといってよい。映画のほぼ全編にわたって戦闘のシーンが繰り広げられるからである。その戦闘シーンのほとんどは、押し寄せるソ連軍を相手にドイツ軍が勇敢に戦う場面なのだが、これがとにかくすさまじい。

サム・ペキンパーといえば、人間の暴力の描き方に新たな地平を開いた監督として知られている。人間と人間の戦う様子をスローモーションで引き伸ばして見せたり、クローズアップで拡大したりして、暴力と言うものの最もグロテスクな面を最大限に強調するのが特徴だ。この映画でも、そういう工夫が縦横に発揮され、戦争の暴力性が真に迫って感じられるようになっている。これは、戦争から次第に人間的な生々しさが取り除かれてゆく現代の趨勢への強烈なカウンターパンチのように見える。どんな衣をかぶっていても、暴力は暴力なのであり、その本質は人間を破壊することにある、ということをこの映画は、単純な形で見せてくれるわけである。

ジェームズ・コバーンは、スティーブ・マックイーンやチャールズ・ブロンソンなどと組んで、一時期の西部劇を彩ったスターだ。ニヒルな雰囲気と斜に構えた演技が身上だった。この映画のコバーンは、そうした自分の持ち味をよく発揮している。

原題の Cross of Iron は、ドイツ軍の鉄十字勲章をさす。ドイツ軍兵士にとっては、戦場での勇気を証明するものとして、最高の名誉とされていたようだ。この勲章を、中隊長のナチス党員が必死に欲しがっているのに、ジェームズ・コバーン演じる下士官は、すでにそれを持っている。彼にとって鉄十字勲章は、欲しがるものではなく、戦いの結果として与えられるものなのだ。

邦題がどういうわけで「戦争のはらわた」とされたのか、よくわからないが、余りにも能のない命名というべきである。



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