壺齋散人の 映画探検 |
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クエンティン:タランティーノの1994年の映画「パルプ・フィクション」は、いかにもアメリカ人好みの暴力映画である。それがカンヌでパルムドールを取り、世界中に評判になったのは、映画の作り方が斬新だったからだ。この映画は、時間の前後関係を全く無視するかたちで、複数の出来事を断片的に配置しているのである。小説の世界でフォークナーがやったことを、映画の世界で実践し、成功したということだろう。 映画は五つの出来事を描くことで構成されている。不良の男女がレストランで強盗を働くこと、ギャングの二人組がボスに命令されて奪われた麻薬を取り戻すこと、その二人組のうちのジョン・トラボルタ演じるヴィンセントがボスの女のエスコートをすること、ボスが落ち目のボクサーに八百長試合を押し付けてひと騒ぎ持ち上がること、二人組が逃走中誤って人を殺したことで、その始末におわれること。以上の五つの出来事が、継時的に描かれるのではなく、ばらばらに分解したうえで、時間の前後を無視して並べられる。だから観客は、事態の進行がどうなっているか、たえず頭を働かせながら見ていないと、何が何だか分からなくなる。そういった頭を使わせるところが、一種の推理ドラマを見ているようで、観客に刺激を与える。そういう意味でこの映画は、ちょっとしゃれた頭の体操なのである。 めちゃめちゃに並べたのでは、それこそ収拾がつかなくなるから、一応構成上の工夫はしてある。冒頭の部分で不良の男女の談合を描いたことを踏まえ、ラストの場面ではその談合が実現される(強盗が実施される)ことを描くことで進行上のまとまりを付けている。その最後の場面に、この映画の主要人物たるギャングたちも居合わせる。ギャングたちは強盗を撃退し、一応映画全体をそれでしめるように工夫されている。しかしややこしいのは、映画の進行途中でボクサーに殺されたヴィンセントが、そのラストシーンで出てくることである。だからうかつな観客は、死んだはずのヴィンセントが生き返ったと取り違える。そうした点では、観客を小ばかにした構成である。 タイトルの「パルプ・フィクション」とは、くだらない作り物というほどの意味だが、どうしてどうして、観客をそれなりに楽しませてくれる映画である。 |
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