壺齋散人の 映画探検
HOMEブログ本館美術批評東京を描く水彩画動物写真西洋哲学 プロフィール掲示板




白痴:黒澤明



黒澤明の1951年の映画「白痴」は、ドストエフスキーの同名の小説を映画化したものだ。小生がこの小説を読んだのは半世紀以上も前のことなので、筋書きの詳細は忘れてしまい、したがって厳密な比較はできないのだが、雰囲気としてはかなり原作に忠実なようである。ただ一つ違うところは、映画の中の白痴の青年が、死刑判決を受けて銃殺されそうになったことを回想する場面だ。これは原作にはないのではないか。ドストエフスキーには、政治犯として銃殺されかかった経験があり、それを映画の中に取り入れたということなのだろう。

原作は、ドストエフスキー一流のとりとめのない会話が延々と続くという印象が残っているが、映画はそんなとりとめのない会話だけでは成り立たないので、一応メリハリをつけた筋書きを用意している。それは簡単に言えば、一人の男と二人の女からなる三角関係だ。三角関係は、男女関係を不安定化させるもっとも強烈でわかりやすい現象なので、演劇の仕掛けとしては使い勝手が良い。その三角関係にもう一人の男を加えて、平行四辺形ともいうべき関係をこの映画はテーマにしている。三角にもうひとつ角度が加わって四角になると、形は安定化するのか、それとも不安定さを増すのか、それ自体興味あるテーマになりうるが、この映画では三角が四角になることで、関係性が崩壊するという具合になっている。

原作ではヨーロッパのサナトリウムで療養中だったムイシュキン公爵が、ロシアに帰って来て、そこでさまざまな波乱をまき起こすという筋書きになっている。筋書きと言っても、劇的な事件が連続するわけではない。ムイシュキン公爵を囲んで不可解な会話が延々と交わされ、その会話のなかからはほとんど何も生まれてこない。人生と言うものは、無駄なおしゃべりをしている間にいつの間にか通り過ごしてしまうようなはかないものなのだ、というような諦念がドストエフスキーの小説からは伝わってきたように覚えている。

映画では、シベリアを北海道に設定しなおし、ムイシュキン公爵にあたる人物には、森雅之演じる白痴の風来坊を当てている。その白痴の前に二人の女が現れる。ひとりは原節子演じる金持ちの妾であり、もうひとりは久我美子演じる小ブルジョワの娘である。白痴はこの二人の女を両方とも好きになってしまう。二人の女も又白痴を愛してしまう。そしてどちらが白痴を自分のものにするか、女同士のさや当てを演じる。その結果どちらも勝利者とはなれず、白痴は世の中に絶望してしまうのだ。というのも、第四の人物である三船敏郎が、嫉妬から原節子を殺してしまうからだ。

この白痴を演じた森雅之が、意気込みだけは強く伝わってくるのだが、どうも白痴というガラには見えない。原作のムイシュキン公爵は絵にかいたような好人物で、善意だけで生きている子どものように天真爛漫な人物として描かれているが、森雅之はどちらかというと、ニヒルなところが売り物の俳優だ。そのニヒルな森が白痴を演じても、白痴らしさが伝わってこない。一方原節子のほうは、妾らしい抜け目のなさと、自尊心の塊のような傲慢さを心憎く演じている。彼女には悪女役もよく似合う。

それはそれとして黒澤は、なぜドストエフスキーの作品から「白痴」を映画化する気になったのか。ドストエフスキーがこの作品を通じて訴えようとしたことは、一つは白痴を通じて人間性の本質を抉り出すこと、もうひとつには、人間は神の子であるとする宗教的なテーマだったと思うのだが、日本には白痴について寛大な伝統もないし、ましてや白痴が宗教と深い結ぶつきをもっていると考える伝統もない。というより、白痴を含め社会的弱者への暖かいまなざしがほとんど問題にされない文化的な伝統の中に日本人は生きて来たし、この映画の公開された時点でもそのように生きていたはずだ。そういう風土のなかに、このような映画を投げかけるということに、黒澤はどれほどの意義を感じていたのか。ともあれ、黒澤の意気込とは別に、この映画はほとんど反響を呼ばなかった。




HOME| 日本映画| 黒澤明| 次へ









作者:壺齋散人(引地博信) All Rights Reserved (C) 2013-2018
このサイトは、作者のブログ「壺齋閑話」の一部を編集したものである