壺齋散人の 映画探検 |
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成瀬巳喜男の「乱れる」は、かなりな時代性を感じさせる映画だ。まず、十代の時に結婚した男の家に、男の死後十八年間も残りつづけ、男の家族のために自分の青春を犠牲にして尽くしたという話が、いまの時代には理解しがたいことだ。また、嫁入り当時はまだ7歳の少年だった夫の弟が25歳の青年になって愛を打ち明けてきたことに対して、女はそれを正面から受け止められない。その愛を受け入れることは絶対に許されないと考えているからだが、何故そんな風に考えるのか、これもいまの時代には理解しがたい事だろう。そうした理解しがたいことが、1960年代の日本ではごく普通に起こっていた。そういうことを、この映画は教えてくれる。 もっとも成瀬は、未来の観客にそんなことを教えることを念頭において、この映画を作ったわけではあるまい。彼が生きていた時代に、普通に生きている女性の一人の人間としての生き方、それを描いただけのことなのだろう。彼の映画を描く視線には、登場人物たちへの深い共感は感じられても、批判的な眼差しはないといってよい。ほかの成瀬作品と同じように、この映画でも、けなげに生きる女を、淡々と情緒豊かに描き出すことに、意をそそいでいる。 舞台は1960年台初めの地方都市清水、主人公の礼子(高峰秀子)はこの町で酒屋を切り盛りしている。彼女は十八の時にここへ嫁入りしてきたのだが、結婚生活たった六か月で夫は招集されて戦死、店も空襲で焼かれてしまう。だが彼女はそのまま夫の家に残り、再建を目指して必死に働いてきた。そのおかげで店は繁盛するようになってきたが、最近はスーパーマーケットが進出するようになり、経営が次第に苦しくなってきていた。 そんなことを背景にして、物語は動き始める。義母(三益愛子)は礼子に対して遠慮しているが、二人の義理の妹が嫂に再婚話を持ちかけるとみせて礼子を追い出しにかかる。一方、義理の弟幸司(加山雄三)は、礼子に対して秘かに恋心を抱いている。彼は大学卒業後東京の会社に就職したにかかわらず、わずか半年でやめて家に戻ってきてしまったのだが、それも嫂の礼子と一緒に居たいからなのであった。 幸司はスーパーの進出によって店が傾きつつあるのを憂慮して、自分でもスーパーの経営に乗り出そうと思っている。そこで義理の兄に事業の相談をもちかけたりもするのだが、できればその経営に嫂も加えたい。というのも、店に尽くしてきた彼女の貢献を思うとそれなりの処遇をしてあげたいし、できれば彼女と結婚したい。そう思っているのだ。 しかし、幸司はなかなか自分の気持を打ち明けることが出来ないで、日々鬱々と過ごしている。だがとうとう自分の気持ちを嫂にぶつける。打ち明けられた嫂の礼子はショックを受ける。ずっと子供だと思っていた義理の弟が、自分に向かって愛を打ち明けて来たのだ。それは心のどこかでは、嬉しく感じられることではあったが、人の道として許されることではない。そう考えた彼女は、彼との間に距離を取ろうと努めるのだが、心の乱れは致し方がない。 心が乱れた彼女は、家の中での居場所を次第に失っていく感覚にとらわれる。そこでついに、この家を出ようと決意する。それに先立って、幸司を寺の境内に呼び出し、自分たちの間では愛が成立しないということを告げる。世間には常識というものがある、というのがその理由だ。それに対して幸治は「もう、いいじゃないか、十八年間も犠牲になったんだから」といって改めて求愛するのだが、彼女は、犠牲になったのではなく、わたしなりに生きて来ただけだといって、突き放すのだ。 義母や義理の妹たちも居る前で、礼子はこの家を出て自分の人生をやり直す決意を告げる。義妹たちは喜ぶが、幸司は無論納得しない。礼子が家を出て行った後をひっそりと追いかけ、礼子が乗った電車に乗り込んでくる。電車は清水から東海道線を東京に向かって進み、上野で東北方面の列車に乗り換えて山形県の新庄を目指す。 その電車の中で、二人の微妙なやり取りが展開される。そのやりとりが何とも切なく迫ってくる。幸司が仕掛けてくる愛のメッセージを礼子の方もムベもなく拒絶できないのだ。つまり彼女の方でも、この年下の男、しかも義理とはいえ弟を愛してしまっているのだ。 ついに礼子の方からメッセージを返す。新庄に行くのを思いとどまり、途中で下車したうえで、温泉に向かおうというのだ(この温泉が銀山温泉といって、山間を流れる川の流れに沿って展開しており、なかなかの風情を感じさせる)。ここで観客は、二人が遂に結ばれるのだと期待するところだろう。ところがそうはならない。礼子は自分の方から誘っておいて、最後の一線を超えようとはしないのだ。幸司が礼子を抱こうとすると、礼子は「堪忍して」といって、怯えたような顔をする。それを見た幸司は絶望する。この男は、絶望した挙句に、川に飛び込んで死んでしまうのである。 ラストシーンは、幸司の遺体を垣間見た礼子が、心底から乱れる表情を映すところで終わる。彼女の顔は、絶望のあまりに、暗く歪んでしまうのである。その絶望がどこから来るのか、おそらく彼女自身にもわからない。わからないからこそ、身を切り裂かれるような苦しみを感じる。彼女の顔がゆがむのは、その苦しみがそうさせるのである。 こんなわけで、この映画には救いというものがない。何故こんなことになるのか、現代の観客には理解できないだけに、その救いのなさはやりきれないほどだ。しかしやりきれなくても、耐えねばならぬことが、世の中にはある。高峰秀子演じるこの古風な女は、その耐えるということのためにのみ、人生の意義を見ているすさまじい女性ということになるのだろうか。 この映画の中の高峰の演技は非常に真に籠ったものであった。女の切ない思いを心憎いまでに演じていた。一方加山雄三の演技もまあまあだったといってよい。加山はどちらかというと大根の部類に入る役者だが、成瀬の手にかかるとそれなりに生き生きしてくる。成瀬は、女優を輝かせることでは定評があったが、男の俳優の使い方も心得ていたようである。 以上、この映画はドラマ性という点では非常に地味な作品だ。物語の展開という側面よりも、心の葛藤といった側面が中心になっていて、その意味では作り方の難しい映画といえようが、大した破綻もなく、こじんまりとまとまっている。成瀬はこういう映画を作るのがうまかったおかげで、晩年の作品には駄作がない。どれをとっても、一応形になっている。その点は、傑作も沢山作ったが、それと同じほどの駄作も作った溝口健二とは違う。 |
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