壺齋散人の 映画探検
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楢山節考:今村昌平



深沢七郎の小説「楢山節考」を、木下恵介が映画化したのは1958年、それから25年後の1983年に今村昌平が再映画化した。木下の映画は非常に芸術性に富んだ優れた作品だったので、今村は当然それを念頭に置きながら、この映画を作ったに違いない。我々今日の観客から見ても、この二つの作品には深い因縁のようなものを認めることができる。

木下の作品の大きな特徴は、演劇的な様式性にあったということができる。演劇の舞台設定をそのまま画面に持ち込んだようなイメージ造り、全編に長唄や浄瑠璃を流し、まるで歌舞伎を見ているような印象を与えること、そして極力様式化された演技、こうした通常の映画とは異なった手法が、姨捨と言う陰惨なテーマと奇妙なつり合いをとっていた。

今村はどちらかというと、様式とは無縁な作家である。人間の内部から湧き出る情念の息吹をそのままストレートに表現するのを得意としている。大袈裟で作り物めいた表現があるにはあるが、それは演劇の様式とは異なったものだ。また、演劇におけるような、構成のまとまりということにも頓着しない。今村の映画は、構成をこじんまりとまとめるよりも、情念の噴出を野放しにするあまり、映画としてのつじつま合わせを軽視しているといった風情のものである。要するに奔放な映画が好きなのだ。

ところが、この映画では、今村はかなり様式性にこだわっている。舞台設定は、セットによる撮影ということもあって細部まで計算され尽くしているし、人間の生きざまと自然の流れとが絡み合って独特なリズムを醸し出している。たとえば、自然が季節ごとに表情を変え、それに応じて人間も柔軟に反応する、その自然と人間とのコレスポンダンスのようなものが、心地よいリズムを作り出す。このリズムは演劇の様式性が醸し出すものと非常に似ているのである。

演劇とは違った様式性にも、今村は配慮している。たとえば、動物たちの表情を写すところなどだ。この映画では、ハヤブサが兎を捕え、ヘビがネズミを飲みこみ、またヘビや蛾が交尾し、梟が夜の闇を睨み、烏が死者を訪れるなど、要所要所で動物の表情が映し出されるのだが、それが映画ならではの映像の様式美を表現しているのである。この映画がカンヌでグランプリを撮った最大の要因は、この完璧に近い様式性にあったと思われるほどである。

一方今村は、木下作品との差別化を図る工夫もしている。最も重要なのは、深沢の別の小説の要素を取り込んでいることだ。その小説は「東北の神武たち」というもので、東北の農家の二男坊以下の男たちの不運をテーマにしている。東北は貧しいので、子供たちのうちで一人前に家を持てるのは長男に限られる。次男以下は奴として長男に使役される立場になる。無論結婚も出来ず、家も持てない。そんな境遇の人物像を、この映画は主人公辰平の弟と言う形で取り込んだわけである。左とん平演じる、この奴の利助が、狂言回しのような役割を演じて映画に深みをもたらしている。

この利助は、家の中に快適な居場所を持たないばかりか、部落中からバカにされている。息が臭いというのが理由だ。その利助の最大の悩みは性欲の処理だ。人間の女とセックスできないので、犬を相手に獣姦している。兄の辰平が後妻を貰って、早速セックスをするのをみると、いても立ってもいられなくなり、雌犬の所に夜這いを仕掛ける始末だ。そこで利助はたまたま面白い光景を目撃する。犬の飼い主の夫婦が語り合っているのだが、その内容が破天荒なのだ。夫は今にも死にそうな病人なのだが、自分が病気になったのは自分の家が悪霊に祟られているからだ信じている。というのも、昔この家の娘に夜這いに入り込んだ奴を男の父親が殺してしまった、それ以来この家にはその奴の悪霊が取りついて、自分も不治の病に罹ってしまった、だから是非その奴の呪いを解消したい。それには、この村の奴たちに、お前がなにをさせてやることだ、そうすれば奴の呪いはおのずと解ける、というのである。

亭主が死んだあと、女房は村中の奴たち一人一人に自分を抱かせるようになる。利助も当然おすそ分けがあるものと期待している。ところが女は自分の所にはやってこない。あんな臭い男はいやだというのだ。落胆した利助はやけくそになる。それを見ていた兄の辰平は、女房を一晩だけかしてやろうとまで考えるのだが、女房はガンとして受け付けない。そうするうちに母親のおりん婆さんが機転を利かせて、仲間の老婆を説得し、この老婆に利助を抱いてもらうのである。清川虹子演じるこの老婆が、何ともユニークだ。老婆のセックスは、大島渚も「愛のコリーダ」の中で描いていたが、清川の演技は、あくどさがなくてそれなりに見られる。

もう一つ大きな違いは、辰平の息子の嫁の扱いだ。木下作品では、この嫁はさりげなく描かれているだけだが、今村はこの嫁を、村八分にされる家族の一員にしている。この家族は、盗みを理由に村八分に合い、全員が古井戸に投げ込まれて殺されてしまう。その家族殺害の陰惨な場面を、木下は暗示するだけにとどめているが、今村は微細に描いている。

いよいよクライマックスが近づく。おりん婆さんの楢山参りだ。木下作品では、おりん婆さんの楢山参りは、貧困からというよりは部落の因習に引きずられてのこと、というように描かれているが、今村は、貧困がその理由だと正面切って言っている。年寄りが山に参るのは、あくまでも口減らしのためなのだ。だから、倅の辰平も嫁の玉やんも、いそいで山に参ることはないというのだが、おりん婆さんの決意は固い。

その楢山参りの場面は、30分近くにわたる長いものにかかわらず、極めて密度が濃い。母親を背負子に乗せて深い山の中を歩き、やがて白骨が累々と重なる山頂に到達する、母親にせかされるままその一角に彼女を下すが、なかなか立ち去れない息子を母親が叱咤する。その母親の胸に顔をうずめて息子がすすり泣く。意を決して母親を捨て山を下りたものの、途中で雪が降り出したのを見て舞い戻り、「おっかあ、雪が降って来たよ」と叫ぶところは木下作品と同様、なんとも泣かせる場面だ。

というわけでこの映画は、木下作品を意識しながら、その影響による類似と差別化による差異を感じさせながら、きわめて完成度の高い世界を作り上げているといえよう。

おりん婆さんを演じた主演の坂本スミ子は、田中絹代同様、この映画のために前歯を四本も抜いたそうだ。抜いた歯は、後にインプラントで処置したそうだが、いくら俳優精神からとはいえ、そこまでやることはないだろうにと思えないでもない。また辰平を演じた緒方拳は、それまでの茫洋とした演技ぶりとは一風違った誠実な人柄を演じていた。





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