壺齋散人の 映画探検
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ホタル:降旗康男



降旗康男の映画「ホタル」は、鹿児島の知覧にあった陸軍の特攻基地を舞台にした映画である。この基地は、いまでは「知覧特攻平和会館」という形で受け継がれ、特攻で死んでいった1300人余りの若者の写真や遺品を保存している。筆者もこの会館を訪ねたことがあるが、深い感動なしに接することはできなかった。死んだ若者一人ひとりの声が聞こえてくるようであった。

知覧特攻平和会館では、特攻基地にまつわる逸話を今でも言い伝えている。それは、特攻基地の隣で食堂を経営していた女性と若い兵士たちとの交流にかかわる話だ。この女性は、若い兵士たちから母親のように慕われていたのだったが、あるとき出撃が決まった一人の若者から、今度はホタルとなって帰ってくると言われ、それ以来ホタルを見るたびにこの若者を思い出すという話だった。この映画は、その話をもとに、特攻と生死の意味について考えようというものである。

映画は、昭和天皇が死に、昭和という時代が終わったその時点から、昭和の最も過酷な時代を回想するという形で進む。主人公は高倉健演じる特攻の生き残りで、鹿児島で漁師をしている山岡とその妻友子(田中裕子)だ。特攻の母と呼ばれた女性山本富子(奈良岡朋子)は、知覧で旅館を経営しながら、死んでいった兵士を弔うために余生を捧げている。その女性が、日頃親しくしている山岡に一つの願い事をする。朝鮮出身の特攻兵士の遺族が釜山に住んでいることがわかったので、体力が衰えもう行けなくなった自分に代わって、そこへ遺品を届けて欲しいと言うのだ。その兵士は、今は山岡の妻である友子のかつての許婚であった。山岡は迷うが、ついに妻とともにその兵士の遺族を尋ねる決心をする。そして遺族の前で、その兵士の遺言を伝え、はじめはとげとげしく対応していた彼らと和解するというのがおおまかのあらすじである。その和解を象徴するかのように、釜山の空にもホタルが飛ぶのだ。

筆者は、知覧の特攻平和会館を訪ねた際には気づかなかったのだが、映画の中では、特攻兵士の多くが朝鮮半島や台湾の出身者だったと強調している。山岡が遺言を伝えた兵士もそうした一人だったわけだが、日本人ではなく朝鮮人にことさら焦点をあてたのは、降旗の映画作家としてのこだわりなのだろう。知覧の特攻基地は、いまでは、ある種のナショナリズムに利用・喧伝されているところがあるので、そこを描くのに、ことさら朝鮮出身者を絡めるのは、強い反発を招くだろう。このような映画がいま作られたら、恐らく右翼の嫌がらせに会うと思われる。そんなわけで、この映画が作られた10数年前には、日韓和解の雰囲気が生きていたということを、この映画は改めて感じさせる。

映画にはもうひとり特攻の生き残りが出てくる。井川比佐志演じるその男は、自分が生き残ったことに強い罪悪感を抱いている。こうした罪悪感は、たとえば3・11で家族をなくし自分だけが生き残った人々にも見られたところで、恐らく日本人の内面に深く根ざした感情なのだろう。生き残ったのは運命の配剤なのだから、自分をそんなに責めることはないと言うのは簡単だが、言われた当人にとっては、理屈で割り切れるものではないのだ。結局この男は、昭和の終りと心中するような形で自ら命を絶つのである。

映画は、山岡とその妻友子との深い夫婦愛にも焦点を当てている。この夫婦の愛にも死の影が付きまとっている。妻が重症の腎臓病で、余命いくばくもないのだ。その妻の命を少しでも延ばしてやりたいと思う夫が、自分の腎臓を移植したいと考える。だが妻は、寿命に逆らうことはないと言って、受け付けない。その時に高倉健演じる夫が漏らす言葉が、聞くものの心に響く。「ふたりで一つの命じゃないか、違うんか?」と言うのである。泣かせる言葉ではないか。

結局腎臓の移植は行われない。二人で釜山を訪ねた後しばらくして、一人になった山岡が、妻の名を冠した漁船を焼くところで映画は終わるのだ。焼かれる船が、あたかも火葬される妻の姿のように見える。

なお、年老いた人間が過去を回想する形で話を進めるというのは、「鉄道員」の場合にもとられた方法だ。降旗康男は、こういう演出の仕方が好きなようだ。





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