壺齋散人の 映画探検
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今村昌平「にっぽん昆虫記」:自立した女の生きざま



今村昌平の映画「にっぽん昆虫記」は、戦中から戦後にかけての厳しい時代を、たくましく生き抜いた一人の女を描いたものである。この時代の、貧しい家に育ち、自分の身体の外には何も持つものがない女の多くが売春に身をうずめたのと同じように、この映画の主人公の女も売春稼業に身を沈めながら、それでもたくましく生きた。そんな女の生きざまを、今村は冷徹きわまる視点から描いたわけだ。

もしこの映画がもう少し早く作られていたら、映画史上に残る大傑作としてもてはやされたかもしれない。それほど、一時代における日本の裏面がリアルに描かれている。しかし、この映画が公開された1963年の暮には、オリンピックを翌年に控えて社会は好景気に沸き、この映画が描いたような絶対的な貧困は過去のものになりつつあった。また、売春防止法が施行されて数年がたち、社会問題としての売春はもはや人々の意識には上らなくなっていた。だから、この映画は、二重の意味で時代遅れを感じさせるところがあったのである。

それでも今村は、あえてこの映画を世に問うた。もともとは、この映画作りに長い時間をかけ、売春婦たちに取材して構想を練っているうちに、時間が早足で過ぎて行って、やっと出来上がったころには、上述したように時代遅れになってしまっていたわけだが、しかしそれなりの反響はあった。この映画が公開された時点では、この映画の主人公のような女は、さすがに表立っては見られなくなっていたものの、それでもついこの前まではどこにもいたわけだし、またちょっと裏道にそれれば、まだ見られないわけでもなかった。高度成長期に入っていたとはいえ、日本はまだ過去から完全に脱却したとはいえなかった。それ故、この映画は、まだ当時の日本人に訴えかけるものがあったのである。

主人公のトメ(左幸子)は、東北の寒村で貧しい小作人の子として生れた。母親は淫乱な女ということになっており、トメの父親が誰かはわからない。形式上の父親は少し頭が足りないということになっており、映画の中では存在感が薄い。やがてその形式上の父親に、トメは近親相姦的な愛着を覚えるようになる。

成人して町に出たトメは工場で働くようになるが、家の者から騙されて呼び戻され、地主の三男坊に足入れすることを迫られる。家のものたちは、トメを自分らの生きる糧くらいにしか考えていないのだ。そんなトメの気持を理解してくれるのは、形式上の父親だけだった。

結局トメは、地主の家を追い出されて実家に帰り、娘を生む。しかし、自分の居場所がないことから、娘を父親に託して再び工場で働くようになる。時あたかも戦後民主主義が昂揚していた時代だ。社会の変革の息吹はトメの働いている工場にも押し寄せ、トメは同僚から焚きつけられてアジ演説をするようにもなる。しかし結局は、時代からも仲間からも取り残され、一人ぽっちになってしまうのだ。

進駐軍の妾の家の家政婦などをして食いつないでいるうちに、新興宗教にかぶれるようになり、その集会の場で出会った一人の女の世話になる。その女は売春婦のあっせん業をしていたのである。そのうちトメも自分の体を売るようになる。だが、他人に使われて搾取されるばかりでは面白くない。なにしろ労働運動にのめり込んだほど権利意識に目覚めていたのである。そのうち、女衒を通さず自分で直接客を取るようになったが、それを見つけた女衒の女から厳しく迫られる。そこでトメは、その女衒を警察に売り渡して、女衒のビジネスを乗っ取ってしまうのだ。

そんなトメに一人のパトロンがついた。問屋の唐沢(河津清三郎)だ。唐沢から借りた金でトメはアパートを借り、そこに売春婦たちを住まわせて、コールガール斡旋のビジネスをする。顧客のリストは女衒からひきついだものだ。

コールガールの斡旋業は順調にいっているように見えた。そんな折に、田舎から娘の信子(吉村実子)が訪ねてくる。母親の仕事が順調にいっているらしいことを知って、金をせびりにきたのだ。半端な額ではない。聞けば、小作人たちが農地解放で手にした農地を、仲間みんなで集団営農するから、機械の購入のための金が必要なのだという。しかしトメには、そんな金はない。

そんな折、形式上の父親が危篤だという電報が来て、トメと信子は村に帰る。父親は瀕死の状態で今にも死にそうである。まだ、65歳だというのに、もうすっかり老人扱いだ。一方、トメの祖母は91歳にもなってピンピンしている。そんな祖母にまわりの者らは、いつまでも生きていられてははた迷惑だと言って罵る。死に際の父親が、トメにむかって、お前の乳が飲みたいという。トメは片肌を脱いで片方の乳房を取りだし、乳首を父親の口にあてがってやるのだ。

母親から金を取れないと知った娘の信子は、母親の情夫の唐沢を誘惑して、金をしぼり上げようとする。それと並行する形で、トメは売春防止法に引っかかり豚箱に放り込まれてしまう。トメに法外なピンハネを受けていると感じて、怒ったコールガールの一人が、トメを警察に売ったのだ。トメもやはり過去に同じことをした。自分のしたことはいずれ、自分自身の身に跳ね返ってくるということを言いたいのだろう。この映画の中ではほかにも、トメが他人からうけた理不尽な仕打ちを、今度は自分が他人に及ぼす場面が幾度も出てくる。

トメが服役している間に、信子は唐沢から金をせしめることに成功し、その金を元手に営農するようになる。彼女の腹には子どもが入っているが、その子の父親は唐沢以外には考えられない。それでも信子は子を産むことを決意している。その剣幕に、信子の婚約者も押されっぱなしだ。

刑務所から出て来たトメを待っていたのは唐沢以外にはいなかった。しかし今更唐沢の世話にもなりたくないし、かといって昔通りに商売をするわけにもいかない。売春稼業に対しては、お上の目が厳しくなってきたのだ。そんなわけで、トメが最後に頼りにできるのは娘の信子だけなのだ。

こうした訳で、映画は、トメが信子を頼って田舎の村に向かうところで終わる。途中雪道に脚を取られ、下駄の鼻緒が切れてしまうが、それは果して何の前兆なのか、観客にかすかな疑問の念を起こしながら。

なお、題名の「にっぽん昆虫記」とは、昆虫のようにたくましく生きる女の生きざまをイメージしたものだという。



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