壺齋散人の 映画探検
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滝田洋二郎「壬生義士伝」:新撰組の田舎侍



滝田洋二郎の2003年の映画「壬生義士伝」は、浅田次郎の同名の小説を映画化したもの。実在した新選組隊士をテーマにした作品である。新選組にはさまざまな人間が集まってきて、なかには同性愛者もいたそうだが、この映画の中の主人公吉村勘一郎は南部藩出身の食いつぶれの下級武士で、妻子を養うために脱藩し、京で有利な就職をする感覚で新選組に入隊したことになっている。そんなわけだから、金に執着するところがある。それが武士として見苦しいのだが、本人は一向に頓着しない。金が手に入るとせっせと故郷の妻子に送金する。いわ出稼ぎ稼業なのだ。しかし武士としての意地を決して失ってはいない。その証拠に最後まで前線に踏みとどまって戦い続けるのだ。そんな一人の田舎侍の意地を、この映画は描く。日本人は、武士にかぎらず人間の意地に弱いところがあるから、この映画は根強い共感を呼んだ。

中井貴一演じる吉村と、佐藤浩一演じる斎藤一を中心に映画は展開する。斎藤は戊辰戦争を会津藩とともに戦い、会津藩と運命を分かち合った男だ。その意味ではやはり武士としての意地を通した。その斎藤の回想という形で映画は展開していく。その時点は明治22年に設定されている。病気になった子供を背負ってある医院を訪ねた斎藤が、病室で一枚の写真を見る。そこに映っていたのは新選組の制服に身をつつんだ在りし日の吉村だった。そこで斎藤が吉村とともに過ごした日々を回想しながら、それに付随してさまざまな出来事が再現されるという形で映画は展開していくのである。

斎藤は当初吉村をひどく嫌っていた。あまりにも金に汚いと思ったからだ。それにいかにも田舎侍然とした雰囲気が気に入らない。そこで会って間もなく吉村を切り捨てようとしたほどだった。しかし吉村は、斎藤の剣を以てもたやすく切られるような男ではない。なにしろ自分の身に、故郷に残してきた妻子の命がかかっているのだ。かれらを路頭に迷わせないためにも、しっかり生き続けて金を送ってやらねばならない。幕末にもなると、一回の庶民でも遠隔地に送金できるようなシステムが構築されていたのだ。

映画は、吉村の若い日の恋とか、強い友情も描く。そうした部分は斎藤の回想をはみ出ており、参考といったところなのだが、その部分にかえって深い味わいがある。吉村の恋はともかく、友情については生涯の強い結びつきで、吉村はその友に脱藩に際して便宜を計らってもらったほか、傷ついた体をひきずって京の会津屋敷にその友人を訪ね、そこで切腹して果てるのだ。その友人の息子というのが、子を背負って訪ねた医院の医師であり、子供の面倒を見てくれた彼の妻というのが、吉村の末の娘なのだった。

吉村とこの友人との触れ合いは浅田の創作で、実話ではないということだが、映画では、この友情が全編を成り立たせている。いわば映画の芯のような働きをしているわけである。それにくらべて吉村と斎藤との関係は、むしろ敵対的な部分のほうが多かったのだったが、最後に至って、吉村の武士の意地を見せられた斎藤が、吉村を見直し、その男気に惚れることになっている。

吉村が南部藩の屋敷で切腹したことは、いちおう史実のようである。かれの切腹がこの映画のハイライトなのだから、単なる創作ではなく、史実だといくことが、映画に一層の迫力を持たせていると思われる。中井貴一と佐藤浩市の演技がよい。




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