壺齋散人の 映画探検
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崔洋一「血と骨」:在日コリアンの半生



崔洋一の2004年の映画「血と骨」は、一在日コリアンの半生を描いたものだ。原作は、「タクシー協奏曲」(「月はどっちに出ている」の原作)の作者梁石日の同名の小説で、かれの実父の半生を描いたものだ。実録だというから、実際に存在した人物がモデルなのだろうが、映画を見た限りでは、世の中にこんな醜悪な人間が存在するものだろうかと疑問に思うほど、ひどい人間を描いている。利己的で冷酷で、人間的な思いやりは寸毫もないくせに、自尊心だけは異常に強い。その自尊心でもって誰彼かまわず、相手を強制的に服従させようとする。すこしでも反抗の様子をみると、すさまじい暴力に訴える。昔の日本にも、強い家父長権をかざしていばりくさっているものはいたが、こんなに自己中心的な人間はいなかっただろう。同じく儒教文化に染まった人間としても、この映画に出て来る在日コリアンは、化け物のような異様さを感じさせる。

その化け物のような在日コリアンをビートたけしが演じている。ビートたけしは、自作の映画でも暴力を描き、自分自身がその暴力の権化のような役を演じてきたが、この映画の中の暴力は、彼自身が描いた暴力とはまったく違ったものだ。かれの映画の中の暴力は、暴力を職業とするやくざ社会の中での暴力だが、したがって一応それなりに理由があっての暴力を描いていたわけだが、この映画の中でビートたけしがふるう暴力は、ほとんど理由のない暴力だ。もちろん腹をたてたから暴力を振るうのであって、腹をたてるについては本人なりに理由があるのだろうが、その理由というのが、まったく世間の常識にかなっていない。とにかく、相手を暴力によって屈服させたいという思いに駆られて振うのである。

原作者の梁石日も、この映画の監督崔洋一も在日コリアンである。その彼らが在日コリアンの恥部といえるような部分をあからさまに描いている。その恥部とは、この映画のなかで出て来る在日コリアン・コミュニティの絶対的な貧困であり、主人公に体現されたような抑圧的な人間像である。主人公のような人間ばかり出て来るわけではないが、性格破綻者と思われるような人間は他にも出て来る。主人公の娘は、父親の暴力に耐えかねて、意の染まぬ結婚を決意するのだが、その結婚相手の夫からも理不尽な暴力を振るわれ、生きることに絶望して首を吊ってしまう。その彼女から、相談を持ち掛けられた弟(原作及び映画の語り手役)は、姉の苦境を十分に知っていながら、自分では手を差し伸べようとはしない。貧しさということもあるのかもしれないが、この映画に出て来る在日コリアンたちは、兄弟愛さえも冷笑されるような、ひどい人間たちとして描かれているのである。

ビートたけし演じる主人公は、1923年に、済州島から大阪へ出稼ぎに出て来て、1984年に幼い息子をつれて北朝鮮へ渡る。その間の約六十年における主人公の行動が、主に年上の息子の目を通じて描かれる。息子とその姉は、父親が母親を強姦してできた子で、母親にはそのほかに連れ子が一人いる。連れ子のことは、ほとんど話題にならず、父と母と姉弟の四人家族が映画の主要な登場人物である。そのほか、たけしの親戚とか、昔女を強姦して生ませた息子とかも出て来るが、物語の中心はあくまでこの四人家族である。息子が語り手であるから、当然のことかもしれない。たけしは女癖が悪く、映画がカバーする範囲でも、三人の女を妾あつかいしている。そのうち三番目の女に生ませた息子を連れて、北朝鮮に渡るということになっている。北朝鮮への帰国事業は、この映画を見る限り1980年代まで続いていたということだろう。

とにかくすさまじい映画である。ビートたけしが演じているから、すさまじさに輪をかけたすさまじさである。たけし自身はそんなに大柄な男ではないが、映画のなかで暴力を振う姿は大きく見える。原作の主人公は、実際巨漢といえる男で、その暴力には迫力があったということだ。それにしても崔洋一が、なぜ在日コリアンの同胞といえる人間を、このようなひどいものとして描いたか。その真意を聞きたいところだ。

済州島からの船が大阪に近づいた時に、乗っていた人々が口々に「テパン」と叫ぶ。「テパン」とは大阪のハングル読みだ。その大阪がこの映画の舞台なのである。ちなみに東京は「トンギョン」というそうだ。



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