壺齋散人の 映画探検
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花よりもなほ:是枝裕和



是枝裕和の映画「花よりもなほ」は、「誰も知らない」の次の作品だが、同じ監督の映画とは思われないほど、違った印象を受ける。「誰も知らない」が日本の現代社会への強い批判意識に裏打ちされているのに対して、この映画は徳川時代の昔の日本を舞台にして、気軽なエンタメ気分があふれている。基本的には、エンタメ作品といってよいだろう。だが、良質なエンタメであり、見てて気分がいい。小生の好きな女優宮沢リエが出ているということもあるが。

時代背景は元禄の頃。この時代の江戸のスラム街に暮らす町人たちの生きざまがテーマといってよい。元禄時代は、江戸の町人文化が初めて実を結んだ時代であり、華やかなファッションが花開いた一方で、この映画に描写されているような、貧困も蔓延していたのだろう。とにかくこの映画に出て来る町人たちは、みな貧乏暮らしで、その日限りで生きているのだが、別にそれを苦に思うわけではない。人生などとはこんなものさと割り切っている。だから、映画の印象は底抜けに明るい。

映画は、貧乏長屋に身を寄せ合って暮らす人間たちを描写しているという点で、どこかしらゴーゴリの「どん底」と、それを映画化した黒澤の「どん底」を思い起こさせる。しかし「どん底」とは違って、あまり深刻なシーンは出てこないし、そんなに複雑な性格の人物も出てこない。いまでも、そこいらにいそうな人間ばかりである。そんな凡々たる人間が繰り広げる人生模様をこの映画は淡々と描いているわけだが、それだけでは、映画として一本筋が通らない。そこで筋を通す工夫が施されている。

その工夫とは、仇討だ。仇討は、元禄時代まではまだ日常的に行われていたし、当事者にとっては面子に関わる事柄だった。親を殺された人間はその仇を討つことを社会から強制されるようなところもあった。この映画は、その仇討を二つ繰り入れることで、映画としての筋を通そうというわけである。

二つのうちの一つは、親の仇を探し求める武士の話である。この武士は信州松本藩士ということになっており、藩から仇討を強く奨励されている。かれは親の仇討を果たさないうちは、藩へ戻れないのだ。そこで、貧乏長屋に潜んで仇の行方を追っているうちに、ついに当の仇を突き止めるのだが、俄には実行に移れない。この男はからきし剣が苦手で、返り討ちにあうこと間違いないのだ。そこで二の足を踏んでいる。

もう一つは忠臣蔵の仇討だ。小野寺十内を始めとした数人の赤穂浪士が、この貧乏長屋に潜んで、仇討の機会を待っている。世間では、主君の仇をなかなか打てないでいる赤穂浪士を腰抜けだといって罵っているのが、かれらにはたまらない。なんとかして早く吉良の首をとって、晴れて世間に顔向けをしたいと願っている。

この二組のうち、赤穂浪士のほうは、歴史上の出来事として、仇討を果たす。その赤穂浪士のうち寺坂吉右衛門だけが四十七士から脱落してしまうのだが、それは吉右衛門が臆病だったからだということになっている。しかしそう言ってはみもふたもないから、吉右衛門は大石の命で単身仲間から脱落し、同志の家族に仇討の顛末を報告する役目を仰せつかったということにしようと、長屋の仲間から智慧をつけられる。知恵をつけられた吉右衛門は、仲間の遺族に快挙を報告すべく、国元に出立するのだ。

一方、親の仇をなかなか果たせないでいる武士のほうについては、ひとつ狂言を打って、仇を討ったということにして、それを藩に納得してもらおうということになる。その企みは成功し、武士は一応面目を果たす。それについては宮沢リエ演じる気丈な後家が、ひと肌ぬぐ。彼女は、仇討だけが人生ではないですよといって、仇討に拘る武士を説得するのだ。

その宮沢リエの演技がなかなかいい。この女性は、単にそこにいるだけで、周囲が華やかになる。なによりも目がチャーミングだし、腰の振り方から首の傾げ方まで実にエロティックでもある。声も魅力的だ。というわけで、この映画は宮沢リエの演技を見られるだけで儲けものというべきである。




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