壺齋散人の 映画探検
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私の、息子:ルーマニア映画



2013年のルーマニア映画「私の、息子」は、息子を溺愛する母親と、そんな母親に反発しながらも肝心なところでは依存する息子との、よくありがちな母子関係をテーマにしたものだ。この手の母子関係はどこの国でもあるし、日本にも当然あるが、この映画に描かれたようなものはちょっと珍しいかもしれない。そうした意味では、ルーマニア人の国民性のようなものを感じさせられる。

どこが珍しいかと言えば、母親は一人の人間として自立しており、その点では過不足のない生活をしており、なにも息子ばかりが生き甲斐で、息子なしではとても生きられないというわけでもないのに、息子の愛を全面的に自分に向けさして、息子がつねに自分のそばにいることを要求するところだ。つまり、この映画の中の母親は、息子を全面的に支配したいのだ。こうした支配欲に裏打ちされた息子への愛は、支配される側としてはうっとうしいはずだし、実際息子はそのうっとうしさに反発して母親を罵ったりするのだが、自分が窮地に陥ると、母親に依存して、その庇護を求めるような情けない男なのである。

こうした母子関係のありかたは、日本では珍しいのではないか。日本の母親にも息子に対して支配的なものはいるが、そういう場合にはだいたい息子のほうでも母親の支配を受け入れたいという意志を示している。つまりもたれあいの関係にあるものが多い。この映画のような息子が反発しながら、その反発を抑え込むようにして、実質的には支配してしまう母親というのは、かなりグロテスクである。そのグロテスクさは、利起心から発しているので、日本の母親のように利己心がそれほど強くない女性の場合には、なかなか見られないタイプである。

筆者はルーマニア語はまったくわからないが、それでもこの母親が「ヨー・ソン」と言っているところなどを聞くと、やはりラテン系の言葉を話す民族だという見当はつく。しかしわかるのはそれくらいで、しゃべっている言葉はまったく理解できない。題名の「Poziția copilului」も、まったくピンとこない。

息子が交通事故で少年を死なせ、刑事訴追されそうになったときに、母親が息子のために奔走する。その際の母親のやり方がこの映画の大きな見どころで、筆者などには、そこにルーマニアの社会関係の特徴などを見ることができて、興味深く思われた。なにしろ母親は息子を救おうとして、ありとあらゆることをする。警察を抱き込もうとしたり、事故の目撃者を買収しようとしたり、被害者の親に向かって自分たちの都合を一方的に訴えたりだ。日本人ならかえって裏目に出るだろうこういう行為を、ルーマニア人が平気でするのは、社会全体が個人のエゴの表出について寛容なしるしなのだろうか。考えさせられるところである。

母親がエゴイストだとしたら、息子もまたエゴイストだ。息子は母親の愛をうるさく感じながら、同棲している恋人の人格を踏みにじるような利己的人間なのだ。その利己的な人間がいざ事故を興して窮地に陥ると、自分ではなにもできずにおろおろとするばかり。結局は母親に尻拭いをしてもらう。とにかく情けない男なのである。そういう男は日本でもいるかわからぬが、これほどひどいタイプは珍しいのではないか。





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