壺齋散人の 映画探検
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アンダーグラウンド:バルカン半島現代史



1995年のパルム・ドールをとった「アンダーグラウンド」は、バルカン半島現代史ともいうべき作品である。これを作ったエミール・クストリッツァはユーゴスラヴィア人を自称しているが、出身はサラエヴォで、父親はセルヴィア人、母親はムスリムである。ユーゴスラヴィアの要素を大方体現しているわけである。その彼が、どの民族の視点にも偏らず、ユーゴスラヴィア人としての視点から描いたというのが、この映画の一つの特徴となっている。しかし、もはやユーゴスラヴィアにかつてのような実体性はないと言ってよい。その実体を持たぬ、いわば架空の視点から映画を作っているわけで、そういう意味でこの映画は、空想のなかのユーゴスラヴィアを描いたといってよい。事実この映画は、舞台をユーゴスアヴィアとは言っておらず、「むかしある所にある国があった」というような言い方をしているのである。

映画は、おおまかな時代区分に従って、三部からなっている。第一部は、チトー派のパルチザンが対独レジスタンスを戦っている第二次大戦中のユーゴスラヴィアが舞台だ。第二部はチトーが首相になってバルカン半島の諸国を統一し、ユーゴスラヴィアとして国作りをした頃、そして第三部は、チトーが死んだ後、ユーゴスラヴィアが解体して内戦が勃発した頃が舞台だ。この約半世紀を通じて、三人の人物が中心となって、ユーゴスラヴィアの現代史の一コマが描き出されるというようなふうに、映画の作り方はなっているのである。

三人の主人公とは、チトー派の闘士マルコ、マルコの友人で有能なパルチザンであるペタル・ホパラ(クロと呼ばれる)、そしてこの二人の男から愛される女優ナタリアである。第一部では、この三人がそれぞれの立場からナチスとかかわるところを描いている。マルコはチトー派の闘士としてナチスと戦う一方、女優のナタリアに色目を使っている。ナタリアはクロの恋人なのだが、生きるためにナチスの将校の情婦に進んでなる。そんなナタリアをクロは、命をかけて取り戻し、その際にナチスの将校フランツを撃ち殺すのだ。そんな具合に、第一部では、もっぱらチトー派の対独レジスタンスに焦点が当たっている。そのレジスタンスは、都市の地下に張り巡らされた地下空間を舞台に展開する。タイトルのアンダーグラウンドとは、その地下空間をさしているのである。

第二部は、連合軍の介入で対独レジスタンスが勝利し、チトーのもとで新しいユーゴスラヴィアができるところから始まる。この新たな門出は連合軍によるすさまじい空襲から始まる。その空襲はナチスドイツの空襲よりもはるかにすさまじいものだったとアナウンスされる。ともあれ新たな国家ユーゴスラヴィアにあって、マルコはチトー派の幹部として大きな影響力を持つようになる。一方かれは、かつての仲間をそのまま地下空間に閉じ込めて、戦争はまだ終わっていないと信じ込ませている。そのためにかれは、偽りの空襲警報を地下空間にひびかせて、人々の戦意を煽るのである。

マルコがそんなことをするわけは、地下空間で行っていた武器の製造を引き続き行い、そこから巨額な利益を引き出すためだった。そんなこととはツユ知らず、クロを始めとした地下空間の住人たちは、武器の製造に励むのである。

第三部はユーゴスラヴィアが解体する1990年代初頭が舞台である。解体したあとのユーゴスラヴィアでは、かつての構成国の間で新たな戦争、大規模な内戦が起きる。その内戦のさなか、どういうわけか、対独レジスタンスの英雄的な戦いぶりを映画化しようというプロジェクトが進む。その映画作りの現場に、地下空間から出て来たクロが闖入して、そこでひと騒ぎ起こす。かれは自分とそっくりな俳優が、フランツとそっくりな俳優から殺されそうになっているところを見て、それを現実と勘違いし、フランツを演じた俳優を殺したりする。こうしてお尋ね者となったクロと、クロを騙し続けて来たマルコとが、架空の時空を舞台にして、凄惨な争いを繰り広げる。その架空の時空間のなかで、マルコとナタリアは焼き殺されてしまうのだ。

しかし、それを含めて、映画の中で展開してきたことは、すべてが架空の事だったと、映画の最後でアナウンスされる。思いがけないどんでん返しのあとで、映画のなかで死んだことになっていた人物までが登場し、全員でパーティを催すところで映画は終る。その終わり方が洒落ている。大地から切り離された小島の上で、大勢の人間たちが、ブラスバンドの威勢のいい音楽をバックに祝祭気分を発散させるのだ。その場面は、フェリーニのあの「8.1/2」のラストシーンを思わせる。

こんなわけでこの映画は、ユーゴスラヴィアの現代史を、コミカルなタッチで描き出しているといえるのだが、その描き方が、虚実入り混じったファンタスティックな世界の表出といった具合で、観客は上出来のエンタテイメントを楽しみながら、ユーゴスラヴィア現代史、そういって不都合ならば、バルカン半島現代史の一側面について、知らず知らず学ぶことができる。三時間近い大作でありながら、時間の長さを感じさせないほど、スリリングな作品である。傑作と言ってよい。




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