壺齋散人の 映画探検
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生きたい:新藤兼人



新藤兼人の1999年の映画「生きたい」は、姨捨山伝説にからませながら、現代人が直面している老人問題を、新藤らしくユーモラスに描いたものだ。姨捨伝説は、役立たずになった老人を、口減らしのために捨てることをテーマにしていたが、同じような問題は現代にもある。と言うか、現代は寿命が延びて長生きするようになった部分、役立たずの老人が多く生み出されている。そういう老人を、現代人は老人ホームに収容しているが、これは形をかえた、体裁のいい姨捨ではないのか。この映画には、そんな問題意識が込められているようである。

姨捨山伝説を映画化したものとしては、木下恵介と今村昌平の作品があるが、新藤は今村の作品を意識して、そのプロットをこの映画のサブプロットとして挿入している。そのサブプロットと並行する形で、メーンプロットが展開していくわけだ。サブプロットでは、息子が老いた母親を背負って姨捨山に捨てに行く。メーンプロットでは、娘が邪魔になった父親を、病院の医師と談合しながら老人ホームに捨てる。捨てられた老人は、そこで観念して死を待つだけの状態になる。だが、姨捨伝説とは違って、回心した娘は父親を取り戻しに行く。そしてその父親を背負って家に帰るのである。

だからこの映画は、姨捨をテーマにしながらも、それの否定を前面化している。つまり姨捨をするべきではない。老人を、その意思を無視して老人ホームに入れるべきではない。老人は最後まで家族が面倒を見、自宅の畳の上で死なせてやるべきだ。そういうことをこの映画を通じて新藤は主張したかった、といえるかどうかは、この映画を見た限りではわからない。たまたまこの映画の中の老人は、一度は娘に捨てられながら、また拾ってもらったが、そういうケースは非常に少ないだろう。実際老人ホームに入るということは、そこで死を待つというのが、いまの日本の現実なのだ。

役に立たなくなった老人を三国連太郎が演じ、その娘を大竹しのぶが演じる。三国は、世の中が老人に冷淡なのが気に入らない。そこで行きつけのバーでは、若い客をつかまえては、老人を大事にせよと説教する。そのバーのマダムとは、妻が死んだ後でなじみになったのだった。肉体関係もあったということになっている。そのバーで老人は、糞便を垂れ流して追いだされてしまい、あまつさえ自転車にひかれて病院に担ぎ込まれたりする。彼をひいた医者が、後に彼を老人ホームへ入所させる手伝いをするのだ。

娘のほうは、躁鬱病の気味だが、それはオールドミスになったことに伴うプレッシャーからだ。娘は自分がそうなった原因は父親にあると考えている。この父親の面倒を見ているうちにオールドミスになってしまったのだ。だから父親への恨みは深い。そこで医師から老人ホームへの入所のアドバイスを受けると、いやがる父親を無理やり老人ホームに入れてしまうのだ。老人ホームに入れられた老人は、自分は捨てられたのだと思い、そんな自分の境遇を、姨捨山伝説に出て来る老人と重ね合わせるのだ。だいたいこの老人は、姨捨山伝説の本をいつも読んでいて、それに感情移入しているのだが、その姨捨山伝説の物語が、サブプロットそして本筋の物語にまとわりつくという形になっている。本筋がカラーなのに対して、このサブプロットの部分はモノクロである。

テーマのわりに、重苦しい感じがしないのは、やはり三国と大竹の演技がいいからだろう。三国が役立たずの老人を演じると、弱々しい老人という感じはしないし、娘に捨てられて老人ホームに行くことも、自分自身の選択というふうに伝わって来る。要するに、いつも背筋が立った生き方をしているのだ。そのすがすがしさというようなところが、この映画を明るい雰囲気のものにしている。深刻なテーマは、深刻ぶって描くだけが能ではない。そう新藤は言いたいかのようだ。




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