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吉田喜重「鏡の女たち」:すれ違いの母子



吉田喜重の2002年の映画「鏡の女たち」は、出来こそないのミステリー映画というべき作品。ミステリーとして中途半端だし、物語設定にも時代考証にも無神経ぶりがうかがわれる。主演の岡田茉莉子はすでに七十歳にせまる年頃で、さすがに老化を感じさせる。そんな彼女の老後を輝かせる映画になっていない。

記憶喪失になった中年女を、20年前に失踪した娘ではないのかと思い込んだ老女が、その中年女に過去を思い出させ、なんとか母子の関係を証明したいと動き回る。それにアメリカから呼び寄せられた孫娘と、老女の知り合いの老人がからむ。結局二人の母子関係は証明されないまま映画は終わるので、ミステリー映画としては中途半端なわけである。ミステリーは知的な作業であり、不合理は入る余地がない。ところがこの映画は、ミステリーにとって本質的な要素であるところのミステリーの解明がなされていないのである。

物語設定の無神経ぶりは、二十年前に子供を産んだまま蒸発した娘の顔を、二十年以上も育てた母親がほとんど覚えていないということだ。野生動物だって自分の子は覚えている。ところが岡田茉莉子演じる母親は、覚えていないのだ。娘は記憶喪失者ということになっているが、むしろ母親のほうが深刻な記憶喪失者というべきなのである。

時代考証の無神経ぶりは、母親の夫であった医師が、被爆体験について語ったという部分に現れている。その医師は自身被爆者であって、かろうじて命をつないだのだったが、その際に知り合った娘時代の母親に向かって、放射能の危険があるから野外を歩くなと忠告する。当時原爆のことは日本ではまったくといってよいほど知られておらず、したがって医師といえども、放射能の危険を認識していたはずはないのに、この映画では、医師がそれをきちんと認識していたことになっている。これは、時代錯誤というより、捏造というべきではないか。

また、母親が娘の所在を知ったのは、警察経由ということになっており、その警察はその女がたびたび幼女誘拐をすることに腹を立てていた。その女がなぜくりかえし幼女を誘拐するのか、その動機はわからずじまいである。なぜなら、その女は自分の過去を覚えておらず、したがって人格の統一に失敗しており、なにかをなすにしても、その動機が明確でないからだ。彼女はただその場の気分で幼女を誘拐してしまう。それはほとんど人間のやることではない。

こんなわけでこの映画を、出来損ないのミステリーと呼んだのである。出来損ないというだけではなく、この映画からは、人間には愚かさが似合っているというようなニヒルな気分が伝わってくる。そのニヒルさは、母子と思い込んだ人間たちのすれ違いにもっともよく現れている。最初から最後まですれ違いなのだ。




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