壺齋散人の 映画探検
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君と別れて:成瀬巳喜男



成瀬巳喜男は戦後の活躍が目覚しいので、戦後の作家だという印象を持たれているが、サイレント時代から映画作りをはじめ、戦前に一定の境地を確立していた。1935年の「妻よ薔薇のように」が戦前の頂点とすれば、1933年の「君と別れて」はサイレント映画の代表と言える。戦争体制が本格化し、戦意高揚映画が国策として作られるようになると、成瀬は停滞期に入り、戦中・戦後にかけてB級映画ばかり作った。その彼が映画作家として立ち直ったのは、1951年の「銀座化粧」及び「めし」をきっかけにしてのことである。それ以後は死ぬまで、良質な作品を作り続けた。

成瀬映画の特徴は、女の立場に寄り添って、弱いものの視点から日本社会の矛盾とか庶民のつつましい暮らしぶりとかを淡々と描くことにある。ドラマチックな展開には乏しいが、人間の内面を見る目は鋭い。その鋭い目で、同時代の日本社会が抱えていたさまざまな問題を、病理学者が人間を解剖するように、抉り出して見せた。

「君と別れて」には、そうした成瀬らしさがすでに色濃く出ている。この作品を、成瀬は自分で脚本を書いたのだが、そこには弱い立場の女の視線に立つという、成瀬の生涯変らぬ姿勢がすでに貫かれている。この映画に出てくる女たちは、芸者稼業をしながら女手一人で息子を育てている年増やら、家族の犠牲になって泥水稼業をしている少女のような若い女である。こうした女の対極には、金で女を買って憂さ晴らしをしている情けない男たちや、娘の稼ぎで昼間から酔いつぶれているだらしない父親が出てくる。男が女を食い物にし、食い物にされた女はそれを自分の宿命と受け止めて耐え忍ぶ。そうした成瀬映画におなじみのパターンが、この映画ですでに確立されている。そういう意味で、この映画は初期の成瀬の代表作と言ってよい。

この映画の面白いところは、年増芸者の息子をうまく使っていることだ。この息子(磯野秋雄)は、母親(吉川満子)が芸者をしているのが気に入らなくて、不良の仲間たちと付き合い、中学校にいかない。そんなふうに息子がぐれたのは自分のせいだと母親は自分を責めている。だがほかにどうしようもない。そのどうしようもない悩みが、この映画の一つのポイントになっている。一方、母親の芸者仲間の若い女(水久保澄子)は、この息子に好意を寄せている。その好意は、姉さん格の年増芸者への好意の延長として始まったのだが、それが何時の間にか、息子への愛に変ったようなのだ。この若い女は、息子が母親を困らせているのに心を痛め、なんとかして息子を立ち直らせようとする。自分の実家に息子を連れて行って、自分がいかに悲惨な境遇に置かれているか、それに比べれば息子のほうは母親の愛に包まれて幸福なのだから、もっとまじめにならなければいけない、などといって息子を説教したりするのだ。その挙句に、息子と不良たちとのトラブルに巻き込まれ、不良にナイフでさされて大怪我をしてしまう。

この若い女の努力の甲斐があって、息子は心を入れ替える。怪我の治った女は、息子に別れを告げる。自分の父親が妹まで売り飛ばそうとしているのがたまらなくなり、妹を救う為にもっと金になるところへ身売りしたというのだ。それがどんなところかは、いうまでもない。こう言われた息子には、どうしようもやりようがない。母親のほうもこの女に娘のような気持を抱いているが、やはり彼女を窮地から救い出すことはできない。彼女は新しい奉公先へ行くために、一人で列車に乗り込む、それを息子がホームから見送る。その様子がなかなかの見ものだ。今日的な感覚では、まったくありえないような光景が、そこには展開されている。身売りして遠くへ行ってしまう女を、恋する男がめそめそしながら見送る。こんな光景は今の日本人には、滑稽としか映らないだろう。ところが、昭和のはじめの頃までは、こうした光景が珍しくなかった、ということを我々は成瀬によって教えられるわけだ。

年増芸者の母子が住んでいるのは、東京の下町ということになっているが、掘割らしいものが出てくるところから、深川あたりではないかと思わされる。若い女が息子を伴って実家に帰る場面では、海岸の小さな村が写される。港には小さな漁船が沢山つながれ、また汀近くまで坂道が見えたりするが、果たしてどこの漁村だか、地理にうとい筆者にはよくわからない。

年増芸者を演じた吉川満子が、なかなか年季が入った色気を感じさせる。その年増芸者を不良どもが「みずてん」と罵っていたが、これは「不見転」と書いて、誰にでも相手になる淫売女という意味だ。母親をそう罵られたら、息子としては黙ってはいられないだろう。その息子を演じた磯野秋雄が、いまひとつしまりがない感じを与える。太り気味だし、顔つきにも知性らしいものが見受けられない。その辺の馬の骨といった風体だ。これに対して若い芸者を演じた水久保澄子は、小柄な体つきもあって、人の同情を引いてやまないといった風情である。決して美形ではないが、人の心をそそるところがある。

サイレント映画であることをあまり不自由に感じさせないほど、筋が自然に流れてゆく。字幕の使い方を含め、映像の処理が巧みなのだと思う。題名にある「君と別れて」は、愛する男と別れてひとり泥水のなかに沈んでゆかざるをえない若い女の気持を表した言葉だろう。成瀬らしいネーミングだ。





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