壺齋散人の 映画探検
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さすらい:ヴィム・ヴェンダース



「さすらい」という映画の題名を聞くと、ミケランジェロ・アントニオーニの映画を思い出す。アントニオーニの映画は、妻に捨てられた男が一人娘を伴なって放浪する話だったが、この映画は中年男が二人連れ立って放浪する話だ。彼らはトラックで放浪する。トラックのヘッドには UMZUGE(引っ越し)と大書され、ボディには「メーベル運送」と書かれてあるので、運送車かといえばそうではない。トラックの内部には映画関係のマシンが多数設置され、人が寝るためのスペースも確保されている。このトラックの持ち主は、このトラックでドイツじゅうを移動しながら、映画館に立ち寄って映写機の調整を仕事にしているのだ。

そのトラックに一人の男が拾われる。この男は小型のフォルクスワーゲンで走っていたところを、スピードを出しすぎてライン川の中に突っ込み、命からがら脱出したところを、トラックの運転手に拾われたのだ。こうして不思議な出会いをした二人は、その後このトラックでドイツ中をさすらう。とはいえ、行き当たりばったりではない。トラックの運転手には一応仕事があるので、彼の仕事のスケジュールにしたがって、ドイツじゅうの映画館を巡り歩くというわけなのだ。

かれらはホテルに泊まるわけではない。適当なところにトラックを停めて、そこで寝るのだ。食い物はファーストフードですませ、排便は野原でおこなう。実際映画のなかではトラックの運転手が、雪の積もった原っぱでズボンずり下ろし、腰を下ろしたスタイルで糞を垂れるところを映し出している。ヴェンダースの映画では、前作の「都会のアリス」でも、小さな女の子の排便シーンが出て来たから、よほど排便にこだわりがあるのだろう。

時たま喧嘩をすることもある。小学校の生徒たちの前で映写会を催した際に、うまくいかなかったことがきっかけで仲たがいをしたが、すぐに仲直りする。そのうち、相棒のほうがもうひとりの変な男をトラックのなかに引き入れる。それに対して運転手は、最初は怒りを覚えたが、すぐに機嫌をなおす。こんなやりとりを繰り返しながら、二人は次第に心を通わせていくのだ。

かれらの心に変化が現れたことは、かれらがそれぞれ相手に対して自分の過去をむき出す決意をしたところに現われる。まず相棒のほうが、自分の父親と会うところを運転手に見せる。かれが父親と会うのは十年ぶりのことなのだ。だが、久しぶりにあったというのに、この父子は和解できない。

ついで運転手のほうが、母親の家に相棒を連れて行く。かれも数年ぶりに母親のもとにきたのだが、母親は既に死んでいた。それでも運転手は絶望したりはしない。自分の今を受け入れているからだ。かれは母親が既に死んでいたことをわかって、かえってよかったと思うくらいなのだ。

こんなぐあいで、二人のさすらいはあてのない旅のように続く。その旅を淡々と描き続けるだけで、この映画には筋書きらしいものはないのだ。そんなことから、この映画をロードムーヴィーというのは多少憚られる。この映画は「都会のアリス」に始まるロードムーヴィー三部作の最後の作品という位置づけなのだが、ロードムーヴィーという範疇におさまらないほど、ユニークなところがある。

とにかく三時間に迫る長さだというのに、筋書きらしいものもないまま、延々と二人の旅するシーンが続くのだ。最後には相棒のほうがトラックを下りて、列車に乘ってどこかへ向かうシーンで終わる。かれがどこへむかうのか、映画は明らかにしないので、これがこの映画にとってどのような意味をもつのか、そこもわからない。とにかく変わった映画である。

男二人の無味乾燥な旅のなかでも、ひとつだけ色を添えるシーンがある。ある町で出会った女と、運転手とのちょっとしたアフェアだ。その女は子持ちのシングルとなっていて、運転手に対して色目を使っている様子が、独り寝の欲求不満を思わせるのだが、結局運転手はこの女と深みにはまることはなかった。そんなところにも、この映画のかわったところを感じさせられる。




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