壺齋散人の 映画探検 |
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ヴィットリオ・デ・シーカ(Vittorio De Sica)は、名実ともにイタリア・ネオレアリズモの旗手と言える映画作家である。イタリアのネオレアリズモは、第二次世界大戦の敗戦国イタリアの、戦後の惨めな姿を冷徹に描いたことで知られているが、デ・シーカは中でも特に、辛辣な表現に徹した作家だったと言われている。彼の代表作の一つ「靴みがき」は、戦争によって孤児となってしまった少年たちを描いたものだが、この子らは福祉の対象としてではなく、治安維持の対象として、否定的に描かれている。そこに観客は、戦後のイタリア社会が抱えていた深刻な問題を読み取ることができる。 |
同じく代表作の「自転車泥棒」は、折角ありついた仕事に自転車がぜひ必要で、苦労して手に入れた自転車で仕事を始めたのはいいが、何者かによって奪われてしまうところを描いている。それも自分のちょっとした油断がもとで、目の前で盗まれてしまうのだ。そこで盗まれた主人公の男は、町中を血眼になって探し回る。この映画は、息子を連れて自転車を探し回る男の表情を映し出すことで成り立っているのである。そこまでして一台の自転車に執着させるのは、戦後のイタリアの厳しい状況だということを、この映画は考えさせるのである。 このようにヴィットリオ・デ・シーカの作品は、同時代のイタリア社会に対する厳しい視線に貫かれている。そういう傾向は続く作品「ミラノの奇跡」や「ウンベルトD」においてもみられる。「ミラノの奇跡」は、スラム街に住む人々が自分たちを追い出そうとする開発業者と戦うというものだし、「ウンベルトD」は、生活に困窮した老人の自殺願望をテーマにしたものだ。 ヴィットリア・デ・シーカはまた、後年には、「終着駅」のような、通俗的な成功を狙ったメロドラマも作った。これは見ているのが恥ずかしくなるような、男女の甘ったるい恋愛を描いたものだが、その男女が電車のなかで抱き合うシーンなどは、犬同士が戯れているようで、とても見られるしろものではない。 その「終着駅」以降、デ・シーカは通俗路線に傾いた作品を作るようになった。「昨日・今日・明日」とか「ああ結婚」といったものだが、単に通俗的に陥るのではなく、イタリア社会の矛盾のようなものを嘲笑的に描くところがあって、デ・シーカなりのこだわりを感じさせる。 晩年のデ・シーカは、戦争にこだわった映画を作るようになった。1970年の映画「ひまわり」が代表的なものだ。これはウクライナ戦線に配属されたイタリア人兵士が、戦後ウクライナにとどまって現地の女性と家庭をもったにかかわらず、イタリアに置いて来た女が忘れられずに、会いにいくという話だが、そういう甘い考えは、いかにもイタリア人らしくて、我々日本人には理解しかねるところがある。 つづく「悲しみの青春」は、第二次大戦下のイタリアにおけるユダヤ人迫害を描いたものだ。ファッショはイタリアのユダヤ人に深刻な脅威とはならなかったが、ナチスドイツとの関係が深まるにつれて、ユダヤ人への迫害が強まった。その迫害の中で切り裂かれる男女の愛をテーマにしたものだ。その男女の間柄が、やや理解に苦しむところがあるので、観客は肩透かしにあったような気がしないでもない。 ともあれ、ヴィットリオ・デ・シーカには、それなりの魅力があるのはたしかなので、ここではそんなヴィットリオ・デ・シーカの作品の代表的な鑑賞しながら、適宜解説と批評を加えたい。 ヴィットリオ・デ・シーカ「靴磨き」:イタリア、ネオレアリズモの古典 ヴィットリオ・デ・シーカ「自転車泥棒」:ネオレアリズモの傑作 ヴィットリオ・デ・シーカ「ミラノの奇跡」:天使のような若者とホームレス ヴィットリオ・デ・シーカ「ウンベルト・D」:年金生活者の受難) ヴィットリオ・デ・シーカ「終着駅」:男と女の腐れ縁) ヴィットリオ・デ・シーカ「昨日・今日・明日」:三つの挿話からなるオムニバス ヴィットリオ・デ・シーカ「ああ、結婚」:イタリア人の結婚観 ヴィットリオ・デ・シーカ「ひまわり」:戦争に引き裂かれた男女 ヴィットリオ・デ・シーカ「悲しみの青春」:イタリアでのユダヤ人迫害 |
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