壺齋散人の 映画探検
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伊丹十三の映画:作品の解説と批評


伊丹十三は、妻の宮本信子を主演女優にして、コメディタッチの洒落た映画を作った。伊丹が宮本と出会ったのは、大島渚の1967年の映画「日本春歌考」に共演したときだ。その前年、伊丹は一人目の妻と離婚したばかりだったので、宮本との結婚は順調にいった。以来この二人は、伊丹が死ぬまで仲が良く、伊丹の実質的な監督デビュー作である1984年の映画「お葬式」から、彼の遺作となった1997年の映画「マルタイの女」に至るまで、宮本は伊丹のすべての映画作品に出演している。

伊丹十三は非常に多才な男で、俳優をするかたわら、エッセーなども書いた。しかし彼の本領は、やはり映画監督にあった。それは日本映画の草分けの一人といわれる父伊丹万作の血を引いているのだろうと思う。

伊丹十三の実質的な映画デビュー作は「お葬式」だ。この映画は、日本の葬式のユニークなところを描いたもので、伊丹の文化人類学的な関心をうかがわせるものだ。伊丹には、そうした学者肌のようなところがある。それは、妹の夫である大江健三郎との交流の賜物なのかもしれない。大江は伊丹にとっては、妹の亭主であるばかりでなく、松山東高校での同級生でもあり、二人は少年時代から互いに影響しあっていたに違いないのだ。その割には、この二人には、互いをリスペクトする気配があまり感じられない。大江が自分の小説のなかで伊丹をカッコよく描いたことはないし、伊丹も又、「静かな生活」で大江の家族を描いた時には、大江本人をかなり戯画化して描いている。

「お葬式」の後の伊丹十三の映画には、社会的な関心をうかがわせるものが続いた。その頂点をなすのは「マルサの女」と「ミンボーの女だ」。特に「ミンボーの女」は、日本のやくざ社会の闇をテーマにしたものだったが、そのやくざへの批判的な視点がやくざたちに憎まれて、一時は命を狙われたこともあった。かれは、「マルタイの女」を作った後で、不可解な死に方をしたのだったが、そこに日本のやくざたちの影を想定する見方はいまでも絶えない。もし伊丹が何者かによって殺されたとしたら、それは自分の主義に準じたとして、ほめられてしかるべきだろう。

もっとも、晩年の伊丹十三の映画には、社会的な視点を感じることはほとんどない。大体が娯楽に徹した作品なのである。しかし単なる娯楽映画ではなく、それなりに観客に訴えるところがあるのは、映画監督としての伊丹十三の意地のあらわれなのだと思う。ここではそんな伊丹十三の映画作品を鑑賞し、適宜批評を加えていきたい。


お葬式:伊丹十三の実質的デビュー作

伊丹十三「たんぽぽ」 :ラーメン店の開業をめざす女を描く

伊丹十三「マルサの女」 :国税の査察官を描く

伊丹十三「あげまん」 :男を出世させる女をアゲマンという、反対はサゲマンである

伊丹十三「ミンボーの女」 :民事暴力に立ち向かう女弁護士の奮闘ぶりを描く

伊丹十三「大病人」 :死期を迎えた老人の苦悩を描く

伊丹十三「静かな生活」 :伊丹十三の義弟である大江健三郎の小説を映画化

伊丹十三「スーパーの女」 :スーパーを切り盛りする女を描く

伊丹十三「マルタイの女」 :警察に身辺警護される女を描く、マルタイとは警護の対象者をいう



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