壺齋散人の 映画探検 |
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大林宣彦の1982年の映画「転校生」は、いわゆる尾道三部作の第一作目であり、大林にとっては、その後の映画人生を決定づける転機となった作品だ。大林が尾道にこだわったのは、代々尾道に住んでいた家に生まれ、故郷の町に限りない愛着を抱いていたからだという。尾道という町は、小生も訪れたことがあるが、瀬戸内海に面して、しかも海近くまで山が迫るといった地形で、非常に眺めがよい。つまり絵になる町である。そういう町を舞台に、SFタッチで意外性に富んだ映画を作ったというので、この映画は非常に評判を呼んだものだ。 中学生の学生生活を描いている。町の学校に転校してきた女子学生が、一字違いの名前の男子の同級生と、まるごと入れ替わるというSF風な設定になっている。この女子学生は、幼いころに尾道に住んでいて、その際に、一字違いの男子と仲良くしていたのだった。その二人が、中学生になってから再会し、どういうわけか、互いに入れ替わってしまう。女の子が、体は女のままで男の子の心を持ち、男の子は、体は男のままで女の子の心を持つのだ。要するに、心はもとのままで、体だけを交換したわけだ。心が中身で体が容れ物とすると、この二人は容れ物を交換したのである。 その結果、女の子の姿をしているにかかわらず、男丸出しの行動をし、男の子の体をしていながら、女丸出しの行動をする。おかしいのは、本人だけでなく、かれらの家族もその交換を自然のこととして受け容れることだ。小林聡美演じる斉藤一美の両親も、尾身としのり演じる斎藤一夫の両親も、子どもの性別が変わってしまったことを、おかしいとは思いながら、受け容れているのである。そこがこの映画でもっともおかしいところだ。 それはともかく、この映画の最大の眼目は、性転換ということにある。いままで男として振る舞ってきたものが、女の体に転換する。女として振る舞ってきたものが、男の体に転換する。その結果、男の体をしていながら女らしく振る舞い、女の体をしていながら男らしく振る舞うことになる。そのちぐはぐさを、この映画は楽しんでいるわけだが、それがやや羽目をはずしたように見える。女は過剰に男らしく振舞い、男は過剰に女らしくふるまうのだ。普通の女でもしないような仕草を女の心をもった男がするし、普通の男でもしないような仕草を男の心を持った女がする。そこには、男女の役割をめぐる大林のバイアスのようなものが働いていると思わせられる。 男の姿のままで女の心をもったものは、実世界でも存在する。そうした人たちの行動様式について、小生は詳しく存じていないが、しかしこの映画の中の、女の心をもった男のように過度にめめしく振る舞うことはないのではないか。それを過剰にめめしく振る舞わせているのは、女はめめしくあるのが当たり前だという、大林の偏見が働いているからだと読み取れるのである。 そんなわけでこの映画は、男女の性同一性をめぐる、ややこしい問題を喚起させるところがある。なお、一美を演じた小林聡美は、このとき十七歳だったが、中学生らしさを演じていた。まだ身体が成熟しておらず、裸体にも幼さが残っていたせいであろう。尻は大きくなっているが、胸はまだほんのりと盛り上がっている程度だ。 |
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