壺齋散人の 映画探検 |
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野村芳太郎の1961年の映画「ゼロの焦点」は、松本清張の同名の小説を映画化したもの。この小説は小生も、ほかの清張作品ともども読んだことがあるが、詳細は忘れてしまった。ただ北陸の羽咋のいうところの地名や、新婚早々の妻が行方不明になった夫を探してあるきまわるといったことはおぼろげながら覚えていた。 映画は、原作にかなり忠実に作られているということらしい。だが、原作をわきにおいて、映画そのものを鑑賞するのもよい。映画であるから、人間の心理の襞まで丁寧には描けないわけだし、映画なりの工夫をそのまま楽しめばよい。 そういう姿勢でこの映画を見ると、やや構成に無理なところがある。映画は、前半で妻が夫の手がかりを求めて探しまわるところを描いた後、いったん、警察のアドバイスにしたがって現場から引き上げるのであるが、一年後にまた戻ってきて、事件の真相を暴露するというつくりになっているのだが、その間に強いつながりが感じられず、主人公役の妻が、あたかも神の啓示をうけたごとくに、事件の真相を悟るのである。 以上は筋書き上の構成についての感想だが、その構成を別にして、この映画には隠れたテーマがある。表向きのテーマは失踪した夫の手がかりをもとめることにあるのだが、隠されたテーマとは、暗い過去を負った女たちの恥の意識なのである。事件にかかわった二人の女は、ともに立川で仕事をしていたパンパンだった。その暗い過去をなんとか秘密にしておきたくて、二人の女のうちの独りが、自分の秘密を知っているもう一人の女と、夫の兄を殺害するのである。 このように、暗い過去を秘密にしたいという思いが犯罪を引き起こすという設定は、のちに「砂の器」のなかでも繰り返されており、清張の好きなテーマだったようだ。映画はその女の執念がよくわかるように作られており、その点では、見せる映画になってる。原作との比較をさておいて、映画として見せ場の多い作品である。とりわけ妻が謎を解明するシーンを、能登金剛と呼ばれる断崖を舞台に設定しているところは、なかなか心憎い演出である。 |
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