壺齋散人の 映画探検
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イングマール・ベルイマン「沈黙」:神の沈黙三部作



イングマール・ベルイマンの1963年の映画「沈黙(Tystnaden)」は、「鏡の中にある如く」(1961)、「冬の光」(1962)とともに「神の沈黙」三部作といわれる。「冬の光」にはたしかに神の沈黙を思わせる表現ぶりを感じることができるが、この映画を見る限り、神がテーマになっているわけでもなく、また登場人物は決して寡黙ではない。かえって饒舌なくらいである。

姉妹と妹の子供の三人づれが列車での旅をしている。目的地はわからない。姉の体調が悪いので、彼女ら三人はある駅で途中下車し、一軒のホテルに滞在する。映画はそのホテルにおけるかれら三人の行動に焦点をあてて描いていく。背景設定として、その町はかれらにとって言葉の通じない異郷であり、また、町の中では、夜中にも戦車が徘徊している。とはいえ、戦争の影は感じられない。

姉妹は、子供時代から特異な関係を結んできたらしく、互いに心を打ち解けあうことができない。姉は通訳をやっていることになっており、妹のほうは、小さな男の子を連れているということ以外、大した事情があるとはされていない。ただ、夫と離れていることで、性的欲求不満に陥っており、うずく性欲を満たすために町へ男をひっかけにいったりする。その挙句、ホテルの部屋に男をひっぱりこんで、セックスに夢中になる。そんなところを息子が目撃してショックを受ける。

姉は、妹のそうしたみだらさを批判する。だがその批判は、嫉妬から来ていると匂わされる。姉はこの妹に同性愛的な感情を抱いていて、妹を性的に独占したいようなのだ。だが妹には同性愛の傾向はない。男に抱かれないと性欲は満たされないのだ。

姉のほうが男なしでもすませられるのは、彼女がマスターベーションをするところに現れている。この映画では、イングリッド・テューリン演じる姉のマスターベーションの場面が話題になったのであるが、彼女のマスターベーションは同性愛の延長にある行為のようなのだ。

二人は激しく対立しあい、ついには妹が息子を連れて去っていく。姉は深い喪失感を抱く。しかしその喪失感は神の不在とは関係がないように見える。神が介在しているわけではなく、人間関係の不在にもとづく喪失感なのである。

そんなわけで、ちょっととりとめのない映画である。この映画をつうじて、ベルイマンが何を言いたかったのか、よく伝わってこない。町の中を戦車が徘徊するシーンなどは、とってつけたこけおどしのように見える。

また、小人の一座が同じホテルに滞在し、ナイトクラブでショーを見せる場面がある。その小人たちは、スペイン語を話しているので、スペインを根拠にした旅芸人なのであろう。だが、かれらが何か重要な役割を果たすということはない。これも戦車同様添え物のような扱いである。本筋はあくまでも、姉妹の対立なのである。




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