壺齋散人の 映画探検
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イングマール・ベルイマン「ファニーとアレクサンデル」:虐待される連れ子たち



「ファニーとアレクサンデル(Fanny och Alexander)」は、イングマール・ベルイマンの最後の作品である。その作品をベルイマンは、映画としては異例の五時間超の長大作に仕上げた。ふつう五時間を超える長さの映画は、一時の鑑賞に堪えるものではない。そこで、独立した五つの部分からなるというような構成をとったりして、長時間観客を引きとどめておくための工夫も見て取れる。しかし、作品自体に魅力がなければ、そんなに長い時間見続ける者はいないだろう。この映画には、人をかくも長時間くぎ付けにするだけの魅力があるのである。

スウェーデンの上流階級に属する一家族の物語である。スウェーデンは近年やっと人口が一千万人になったばかりの小国であり、この映画の舞台となった20世紀初頭にはせいぜい四・五百万人ほどの人口に過ぎなかったと思うのだが、そんな小国でも、国民の間に格差と分断があることは、ブルジョワが贅沢三昧を享楽する一方で、乞食が道端に立っていることから伝わってくる。この映画は、乞食に象徴される貧困には眼をつぶり、ブルジョワの贅沢三昧の生活ぶりに焦点をあてている。

贅沢を享受するブルジョワにも悩みがある。この映画はそうした悩みをテーマにしたものである。悩みというのは、父親の死によって家族が解体の危機に瀕するというものだ。父親が死ぬと、母親は他の男と結婚する。するとその男が妻の二人の連れ子を虐待する。その二人の連れ子の名がファニーとアレクサンドルなのである。子供たちが虐待されるのを、死んだ父親の亡霊が憂える。かれは子供たちの境遇が心配で、成仏する(天国に行く)ことができずにいるのである。そこでたびたび幽霊となって幼い息子の前に現れる。その幽霊が、ハムレットの毒殺された父親の幽霊を彷彿させる。ハムレットの父親が、息子のハムレットに向かって母親の不実をなじったように、アレクサンデルの父親も息子に向かって母親の選択のあやまりを非難するのである。

映画は、1907年のクリスマスの夜に始まり、その二年後のクリスマスの夜に終わる。その二年間に、一家の父親の死、母親の再婚、再婚相手による子供たちの虐待、そして子供たちや母親の脱出、最後に虐待した男の死という具合に、目まぐるしいまでの運命の変転が描かれる。この映画の決定的な特徴は、少年アレクサンデルに特異な霊感が備わっていることだ。彼の前に死んだ父親の幽霊が現れるのも、その霊感のせいであるし、また最後に同じような霊感を持った別の少年とともに、その霊感を用いて憎しみの対象である母親の再婚相手を呪い殺すのである。その再婚相手は、死ぬまで自分のしていることを反省することがなかった。かれは主教の座にあり、スウェーデン社会においては、地域における独裁者のような権力をふるっている。だから自分のしていることは、絶対的だという確信がかれにはあるのだ。アレクサンデルが普通の少年だったら、この男の力の前には完全に無力だったろう。だがかれには霊的な能力があった。その能力によって、憎むべき敵を滅ぼすことができたのである。

そういうわけで、ベルイマンとしては、かなり神秘主義的な雰囲気を感じさせる作品である。かれにはもともと宗教的な雰囲気を大事にする傾向がみられたが、この映画の場合には、ゲルマン民族の古代の信仰を思わせるような魔術的世界が開示されている。ベルイマンにもともと魔術的な素質があったのか、それとも晩年にいたってそれにあこがれたのか、詳しいことはわからないが、かれが最後の作品を異例の長さのものとし、しかもそこに魔術の要素を大胆に持ち込んだことは明らかに指摘できる。

映画の中では、イサクというユダヤ人が大きな役割を演じている。かれはこの一家の長老たる祖母の昔の恋人であり、また魔術を使って子供たちを監禁状態から解放したりする。また、かれの甥のひとりが、特別な霊的能力を持っていて、アレクサンデルは彼とともに敵を滅亡させるのである。

以上はメーンプロットにかかわることだが、なにせ五時間超の長大作であるから、さまざまなサブプロットが仕組まれている。そうしたサブプロットの複雑な組合わせが、映画を全体として高密度なものにしている。その密度の濃さが、人を飽きさせないのである。




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