壺齋散人の 映画探検
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ビリー・ワイルダー「サンセット大通り」:老女優の末路を描く



ビリー・ワイルダーの1950年の映画「サンセット大通り(Sunset Boulevard)」は、アメリカ映画を代表する傑作の一つと言われており、アメリカ国立フィルム登録簿に最初に登録されもした作品だ。その理由は、いかにもアメリカ人受けするということらしい。アメリカ人受けするとは、こむずかしい理屈は抜きにして、とにかく楽しめればよいということのようだが、そうした基準に、この映画は当てはまっている。こむずかしい理屈は一切抜きにして、楽しめる作品である。

テーマは、往年の栄光が忘れられない老女優と、しがない脚本家の奇妙な関係。老女優は突然現われた若い男に一目惚れし、自分のマスコットにしようとする。それに対して男のほうは、ヒモのような立場を半ば楽しんでいるが、やがて若い女との色恋沙汰が生じると、それに嫉妬した老女優に射殺されてしまうというような筋書きである。

筋書きは単純で、どうということもないが、老女優を演じるグロリア・スワンソンの鬼気迫った表情とか、その執事役を務めるエーリッヒ・フォン・ストロハイムの渋い演技が観客をうならせる。この二人に比べると、若い作家を演じたウィリアム・ホールデンは影が薄い。ウィリアム・ホールデンといえば、ハリウッドを代表する俳優であり、日本でも「戦場へかける橋」などを通じてファンになった人が多いのだが、そのホールデンの影が薄く見えるのだから、グロリア・スワンソンとストロハイムの迫力がわかろうというものである。

映画は、ホールデンの死体がプールに浮かんでいるシーンから始まる。そのシーンで死者のホールデン自身が、自分の殺されるに至った事情を観客に向かって語るという洒落たやり方で映画は展開するのである。映画の冒頭から過去に遡って回想するという手法は、マルセル・カルネが「日は昇る」で披露したところで、以来類似の作品が多数生まれたが、死者自身が自分の死について語るというのは、この映画が初めてだったようだ。

往年の大女優の悲哀といったテーマは、同年のジョゼフ・マンキーヴィッツの作品「イヴのすべて」でも取り上げられていた。そちらはベティ・デヴィスが主演し、その演技のおかげでアカデミー賞を総なめしたが、今ではこの「サンセット大通り」も、それに劣らぬ傑作という評価が確立している。

そのマンキーヴィッツと、この映画に出てくるセシル・B・デミルとの間には因縁がある。この映画が公開された1950年には、アメリカではマッカーサー旋風が吹き荒れていて、映画人のなかではデミルが赤狩りの先鋒をつとめていた。デミルは当時映画教会の会長だったマンキーヴィッツを赤呼ばわりして、マンキーヴォッツの不在をねらって同士を糾合し、会長職から引き摺り下ろそうとした。ところがその場に居合わせたジョン・フォードが、デミルを名指しで批判し、おかげでデミルは嘲笑の的になり、マンキーヴィッツは引き続き会長職を務めたという有名なエピソーダがある。デミルはこの映画のなかでも、狡猾な人間という印象を与えるのだが、おそらく実際にもそのような人間だったのだろう。

この映画のなかには、マリリン・モンローが端役で出ている。おそらくクレジットにも出ていないので、よほど気をつけていないと見逃してしまう。彼女はこの時24歳だった。映画女優として成功するのは1953年以降のことだ。ワイルダーが彼女を主役として使うのは、1955年の映画「七年目の浮気」が最初である。




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