壺齋散人の 映画探検
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吉田喜重「人間の約束」:痴呆症を描く



吉田喜重の1986年の映画「人間の約束」は、吉田にしてはめずらしくシリアスな作りになっている。テーマは老人の認知症。両親が相次いで認知症になり、とくに症状のひどい母親が、家族全体の負担になる。そこで思い余った息子が母親を殺してしまうという内容。あまりにも陰惨な内容なので、さすがの吉田もシリアスを装わねばならぬと考えたのであろう。

認知症が広範な社会的な関心を巻き起こしたのは、たしか、有吉佐和子が1973年に「恍惚の人」を刊行したことがきっかけだったように思う。有吉がその小説を書いた頃には、日本人の間では、認知症はほとんど理解されていなかった。「ボケ」という言葉があるように、認知症は老化にともなう知的機能の低下くらいに受け取られていた。だから治療の体制も整っていなかったし、社会的な支援体制もなかった。認知症の患者を抱えた家族は、自分らだけでその重荷を背負わなければならないような、惨憺たる状況だった。

この映画が公開された1986年においても、事情はたいして変わらなかったと思う。だから、認知症の両親を抱えた息子夫婦は、自分らだけでその重荷を背負わねばならなかった。その重荷に耐えられなくなった時に、悲劇が起きるのである。

映画は、認知症の老いた母親が死体で発見されるところから始まる。現場検証に来た刑事が、その死体の異変ぶりから殺人事件として捜査する。すると老いた父親(三国連太郎)が、自分が殺したと申し出る。その父親も認知症を患っており、言い分は混乱している。刑事(若山富三郎)は、その老いた父親ではなく、息子(河原崎長一郎)が犯人だろうと目星をつける。そこから、時間は過去へと遡及し、この家族が次第に追い詰められていく過程を描く。その過程は、母親の認知種のますますの深刻化であり、また、老いた父親の認知症の進行である。そういう状況の中で、老いた父親は、なんとか自分らだけで問題を解決し、息子ら夫婦や孫に面倒をかけたくないと思っている。だが、老いた母親はまだ最後の知性を保っており、その知性を振り絞って、自分を殺してほしいと懇願する。みじめなまま生きるより、死んだほうがましだと思うのだ。夫はその願いをくんで、自分の手で妻を殺そうとするが、殺し切れない。ところがひょんなことから、息子が老いた母親の顔を洗面器の水につけて溺死させてしまう。それを老いた父親が見ている。父親はいろいろと考えた挙句、自分が殺したことにするのである。もっとも映画の最後では、悔いた息子が真実を語るということにはなっている。

こんな具合に、実にやりきれなくなるような、気の滅入る映画である。三国連太郎が痴呆老人を演じると、妙に迫力がある。なお、孫が老いた祖父母を、あれはもう人間とはいえないから、生きている意味がないという場面がある。小生は、さる有力な政治家が重度心身障碍者について同じようなことを言ったと聞いたことがある。それは世紀の変わり目の頃だったから、この映画の公開された時代には、そうした考えが一層強かったと思う。




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