壺齋散人の 映画探検
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東陽一の映画:作品の解説と批評


東陽一といえば、「絵の中の僕の村」が代表作だ。小生はこの映画を、東中野の小劇場で見たのだったが、その折の印象はいまだに強烈に残っている。双子の兄弟が、おそらく四国の四万十川とその周辺の豊かな自然を舞台にして繰り広げる御伽噺のような世界は、見る者の誰をもして、自分自身の幼年時代へといざなう力を持っていた。小生もそのようにして、自分の少年時代の甘い雰囲気を思い出した一人だ。

東は、こうしたノスタルジックな雰囲気が好きと見えて、「風音」においても、少年たちの触れ合いを描いた。そうした触れ合いは、東の感性の原点となったらしく、成人の世界を描くときにも、表面に出て来る。彼の出世作「もう頬杖はつかない」は、ある若い女性の恋をテーマにしたものだが、その恋にもやはり幼さがあった。東の描く人間像には、この幼さが付きまとっているようである。

「酔いがさめたら、うちに帰ろう」は、アルコール依存症に陥った男、世間でアル中と呼ばれる男の、自己破壊的な生き方を描いたものだが、その男の甘えにも、人間としての幼さが感じられる。しかもその幼さを、彼の周辺にいる人々は、大目に見るばかりでなく、助長しさえするのである。

「私のグランパ」は、祖父と孫娘との心の交流をテーマにした作品で、幼さとか甘えとかは表面には出ていないが、やはりどこかノスタルジックな感じを漂わせている。孫と祖父の関係とは、だいたいそんなものであろう。

というわけで、東陽一という人は、人間の幼さとかノスタルジックな部分にこだわった映画作家だといえるのではないか。もっともかれは、もっと他のタイプの映画も作っている。「化身」とか「うれしはずかし物語」などは、しゃれた感じのポルノ映画であり、非常に洗練されたエロチシズムを感じさせる。最後の作品「だれかの木琴」は、中年のごく普通の専業主婦が、ちょっとしたきっけかからストーカー行為にのめりこんでいく過程を描いた作品だ。

そんなわけで、東陽一はけっこう変化に富んだ作風を見せてくれもする。ここではそんな東陽一の代表的な作品を取り上げて、鑑賞しながら適宜解説を加えたい。


東陽一「サード」:少年院での生活

東陽一「もう頬づえはつかない」:若者の新しい生き方

東陽一「四季・奈津子」:何となく流される女性

東陽一「化身」:渡辺淳一の小説を映画化

東陽一「うれしはずかし物語」 中年夫婦の浮気

東陽一の映画「絵の中の僕の村:絵本作家田島征三の少年時代

東陽一「わたしのグランパ」:思春期の少女と祖父の交流

東陽一「風音」:沖縄戦の遺産

東陽一「酔いがさめたら、うちに帰ろう」:癌で死ぬアルコール依存症者


東陽一「だれかの木琴」 中年主婦のストーカー行為


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