壺齋散人の 映画探検
HOMEブログ本館美術批評東京を描く水彩画動物写真西洋哲学 プロフィール掲示板


アンドレイ・タルコフスキーの映画:作品の解説と批評


アンドレイ・タルコフスキー(Андрей Арсеньевич Тарковский)はソ連時代のロシア映画を代表する監督である。非常に幅の広い作風で、さまざまなジャンルの映画を作った。ソ連の政治に関しては、あまり表立った発言はしていないが、当局からは反体制的と受け取られたらしく、「アンドレイ・ルブリョフ」はソ連内ではなかなか公開できなかったし、晩年には、実質亡命のような形で、海外で映画作りをした。


しかしタルコフスキーは、必ずしもソ連に対して批判的だったわけではない。出世作となった「僕の村は戦場だった」は、ソ連人としての立場から独ソ戦を描いている。独ソ戦は、ソ連とドイツの間の戦争であり、したがってソ連の存続をかけた戦争だった。それをソ連人としての立場から、タルコフスキーは描いたのである。しかも主人公は少年である。その少年がソ連を守るためにドイツと戦うところを描いたわけだから、タルコフスキーを反ソ的な作家と非難することは見当違いといわねばならぬだろう。

「アンドレイ・ルブリョフ」にしても、ロシアへの批判意識は、すくなくとも画面からはストレートに伝わってこない。ロシア人がタタールのくびきのもとで卑屈に生きていることを描いているが、それがロシア人を侮辱したことにはならないだろう。しかもルブリョフは、ロシア芸術を代表するイコン作家である。そのイコン作家をたたえるのであるから、これも反ソ映画とはとても言えない。ところがこの映画はソ連内ではなかなか上映できなかったのである。

タルコフスキーの面白いところは、ソ連版のSF映画と言うべき作品を作っていることだ。「惑星ソラリス」は、ハリウッドのSF映画とは違った、ソ連流のSF映画で、単にストーリーの奇抜さを追求するだけではなく、宇宙開発が人間にとって持つ意味を考えさせるものになっている。

「ストーカー」もSF映画の範疇に入ると言ってよいが、この映画にはもう一つ、深刻なテーマが隠されている。原発災害が人間にもたらすおぞましい影響だ。この映画を作った時には、チェルノブイリの事故はまだ起こっていないが、この映画はそれを予見させるようなところがある。人間が暮らしている場所の近くに、人間を寄せ付けない空間のあることを描いたこの映画は、原発事故が、人間が暮らしていた場所を、人間から奪ってしまうことを描いたものだ。こんな映画を見せられると、原発事故を体験した日本人としては、原発についてあらためて考えさせられる。

原発災害よりもっと深刻な事態と言えば、原爆を使った戦争、つまり核戦争だ。「サクリファイス」は、その核戦争が起った時に、人間はどのように行動するか、またすべきかをテーマにしたものだ。人間にとって究極的なテーマと言えるこのことについて、この映画は黙示録的な視点から描いている。

その「サクリファイス」をタルコフスキーはスウェーデンで作った。それ以前に「ノスタルジア」をイタリアで作っている。晩年のタルコフスキーは、ソ連内ではほとんど活躍の機会がなかったようである。

ともあれ、タルコフスキーの映画は、多彩であるばかりでなく、現代の地球人が抱えている深刻なテーマを、正面から取り上げて描いている。その意味では、非常にテンポラリーな問題意識をもった映画作家と言える。ここではそんなアンドレイ・タルコフスキーの代表的な作品をとりあげ、鑑賞しながら適宜解説・批評を加えたい。


タルコフスキーの処女作「ローラーとバイオリン」:労働者と少年の心の触れ合い

タルコフスキー「僕の村は戦場だった」:独ソ戦を描く

タルコフスキー「アンドレイ・ルブリョフ」:ロシア史を描く

タルコフスキー「惑星ソラリス」:ソ連流SF映画

タルコフスキー「鏡」:ソ連社会で生きることの意味

タルコフスキー「ストーカー」:原発災害の悲惨さを予測

タルコフスキー「ノスタルジア」:イタリアのロシア人の孤独

タルコフスキー「サクリファイス:アンドレイ・タルコフスキー」:核戦争の恐怖



HOME | ロシア映画









作者:壺齋散人(引地博信) All Rights Reserved (C) 2013-2018
このサイトは、作者のブログ「壺齋閑話」の一部を編集したものである